| Name | Dialogue |
| リッドのとかげ | プロローグ |
| キール | はぁ…ま、待ってくれ…!山登りだぞ…もっと、ゆっくり… |
| メルディ | キール遅い!このままじゃ日が暮れちゃう! |
| キール | そんなに急いで、足でもくじいたらもっと遅くなるだろ |
| メルディ | でも、街が人、待ってるよ。病人いっぱい!お薬必要! |
| キール | わかったよ。病人の苦しみに比べたら、このぐらい平気だって言うんだろ |
| キール | …ぼくだって心配だから、こうして薬草を取りに来たんだ。…急ごう |
| メルディ | ワイール!そうこなくちゃ、な! |
| キール | …待て、メルディ |
| メルディ | どうした?また休憩か? |
| キール | 違う。おまえの足元…その草だ。探してた薬草 |
| メルディ | バイバ!これが薬草!? |
| キール | よく見ると周りにも生えてるな。どうやら、この辺りに群生しているらしい |
| メルディ | やったな、キール!これでみんなが病気、治せるよ! |
| キール | ああ。でも、気をつけろ。その薬草はとても栄養価が高く野生動物も好んで食べるんだ |
| キール | だから群生地となると、動物や魔物の縄張りになっている事も少なくない |
| | |
| | グルル… |
| | |
| キール | 噂をすれば…!メルディ! |
| メルディ | はいな! |
| メルディ | これで最後! |
| | ドーンッ! |
| | |
| | ギャウゥ…! |
| | |
| キール | 片付いたか。また次が来るかもしれない。急いで薬草を集めよう |
| メルディ | はいな! |
| キール | ………… |
| メルディ | キール?どうした?ケガでもしたか? |
| キール | あぁ、いや、何でもない。ちょっと昔の事を思い出してたんだ |
| キール | 小さい頃、リッド達と一緒にこうして薬草を集めに山に登った事があったんだが… |
| キール | 今思うと、よく魔物に出くわさず無事だったな…って |
| メルディ | メルディ、知ってる!キール、ネションベンしてた頃な!リッドが言ってた! |
| キール | なっ…! |
| キール | してない!あの時はしなかったのを、リッドも確認したはずだ! |
| メルディ | あの時は…? |
| キール | あっ… |
| メルディ | メルディ、キール達が昔の話聞きたい!けど… |
| メルディ | …キール、話しづらいか?この話、やめとくか? |
| キール | 気を使うな!別に恥ずかしい話じゃない |
| キール | 仕方ない。詳しく話してやる。…誤解されたままなのも嫌だからな |
| メルディ | ワイール!とても楽しみ! |
| キール | ただし、薬草を集めながらだ。それと、何か言いたいなら話を最後まで聞いてからにする事 |
| キール | 途中で妙な詮索をしたり茶々を入れるようなら話すのをやめるからな |
| メルディ | わかったよぅ。薬草を集めながら最後まで黙って聞いてるな |
| キール | じゃあ、話すぞ。といっても、ぼくも最初は事情をよく知らなかったんだ |
| キール | だからリッド達から聞いた話がほとんどなんだけど…あれはもう何年前になるのか── |
| リッドのとかげ | scene1 |
| | 早朝、雲がかかっていた空も、太陽が高く昇るにつれて明るく輝きだした |
| | |
| | リッド・ハーシェルは彼が毎日通っている道── |
| | 目をつぶっていても迷わないどころか両脇によく茂った草の中につっこむ心配もない |
| | ──を、走っていた |
| | ときどき見上げる空に、あり余る体力を放り投げるように、ジャンプする |
| | リッドが地面を蹴るたびに、ブーツの底が土埃を巻き上げ、小さな風が起きた |
| | わずかばかりの日々の食料を巣に運ぼうとしている昆虫や… |
| | いままさにこの場所を通りかかった蝶たちがあわてて進路を変えるのに、彼はちっとも気づいていないようだ |
| | 緑豊かなインフェリアの、それもこんなラシュアンのような片田舎の村では、 |
| | 自然は文字通り特別なものではないからかもしれない |
| | 作物を育もうと暖かく降り注ぐ雨。動物たちの熾烈ななわばり争い |
| | もしかしたら人の生き死にさえ、リッドにはその仕組みの一部として捉えられているのかもしれなかった |
| | |
| リッド | キール! |
| | リッドは、幼なじみの家の垣根をひょいと飛び越えると、そのままキールの部屋の窓に近づこうとした |
| | が、すぐ横の物干場にキールの母親のラミナを見つけて、あわてて立ち止まる |
| ラミナ | こんにちは、リッド |
| リッド | あ、お、おはよう |
| | リッドは、まずいところを見つかったと、思わずどもりながら挨拶した |
| | 「友人を訪ねるときは、門から入って 玄関ドアをノックするものよ」と… |
| | 常づねラミナに注意されているのを思い出したからだった |
| ラミナ | もしかして、朝ごはんを食べていないのね |
| | ラミナが苦笑すると、リッドは目を丸くした |
| リッド | おばさん、知ってるの? |
| ラミナ | だって、あなた前にいってたでしょう |
| ラミナ | オレのうちは朝食前はおはようで、食べたらこんにちはなんだぜ、って |
| | ラミナは、嫌味に聞こえないよう、答えた |
| | リッドは二歳のときに母親を亡くして以来、もう五年も父親とふたり暮らしをしている |
| | ビッツが不器用だとはいわないが、男手ひとつで育てていれば… |
| | 朝食が遅くなったり、食べずに遊びに出てしまうことだってあるだろう、と彼女は思っている |
| リッド | ちがうよ、おばさん |
| | リッドは大真面目に首を振ってみせた |
| リッド | ファラの家がとりころんでるって。それで食べられなかったんだよ |
| リッド | きょうはファラといっしょに朝ごはん食べることになってたんだ |
| ラミナ | とりころぶ、じゃなくて、とりこむ、じゃないのかしら |
| | ラミナは神経質そうな細眉をわずかに寄せ… |
| ラミナ | 取り込んでるですって? |
| | …と聞き返す |
| ラミナ | いったいなにがあったの |
| リッド | 知らね。ファラ、なにもいわなかったもん |
| リッド | ただきょうは遊べないかもしれないっていっただけだよ |
| | リッドは、キールの部屋の窓のほうを気にしながら、ラミナが手に持っているシーツを指さした |
| リッド | おばさん、それ |
| ラミナ | ええ。またなのよ |
| | 寝しょんべんたれ、とリッドが笑った |
| ラミナ | 私も困っているんですけどね |
| | ラミナは、息子のおねしょ癖のせいで毎日布団干しとシーツの洗濯に追われていることは素直に認めながらも… |
| | リッドの無神経ないいようには内心少々腹がたった |
| | できのいいキールの唯一といってもいい欠点を… |
| | 粗野な少年に笑われるのは気持ちのいいものではない |
| | だが、その気持ちを押さえることくらい… |
| | 賢い母親にとってはどうということはなかった |
| ラミナ | リッド、残り物でよかったらお食事をなさいな |
| リッド | うんっ! |
| | リッドはラミナを見上げ、心底うれしそうに笑う |
| ラミナ | 少し待ってくれる?これを干してしまったら暖め直すわね |
| リッド | べつに、そのままでいいよ。あるもの全部パンにはさんでくれればどこでも食べられるし |
| | リッドは、そのままラミナのそばを離れた |
| リッド | (ここんちの食堂はきれいだけど、 ナイフとフォークで食べなきゃ いけませんっていわれるもんなあ) |
| | できれば気持ちのいい丘の上かどこかで食べたいんだけどな、と彼は思いながら… |
| | 全開になっている窓の枠に手をかける。そのままぴょんと伸び上がった |
| | |
| リッド | キール |
| | リッドは、こちらに横顔を見せて本を読んでいる友だちに声をかけた |
| キール | ああ、リッド |
| | キールはパタンと本を閉じると上目使いに逆光の中のリッドを見、それからまぶしそうに目を細める |
| | リッドは、ふっくらとしたキールの頬に涙のあとが残っているのを目ざとく見つけた |
| リッド | また叱られたのかよ。そりゃそうだな、毎日干して、とりころんで。大変だもんなあ |
| | キールはリッドの言葉にちょっと変な顔をしたが、なにもいわなかった |
| | この友だちはときどきおかしなことをいうし… |
| | 危ないことをしたり、汚れたりすることにひどく無頓着なところがあるのだ |
| | いちいち気にしないことに、キールは決めている |
| キール | ファラはどうしたの |
| リッド | 食えなかった |
| キール | え |
| リッド | 朝メシだよ。なんか家ん中いつもとちがう感じがしてさ |
| リッド | ファラがきょうは遊べないかもって |
| キール | どうして |
| リッド | 知らねえって。おばさんと同じこと聞くなよ |
| | キールは、手に持っていた本を机の上にきちんと置いてから |
| キール | 誰だって聞きたいさ、そんなことがあれば。ファラに訊ねてみるのがふつうだろう |
| | と、不機嫌そうにいう |
| リッド | だったらいまから聞きに行こうぜ |
| キール | それはかまわないけど…… |
| | キールは、やっと束ねられるようになった髪に手をやり、庭を見やった |
| | 母親の姿はない。すでに家の中に戻ったらしい |
| リッド | もうできたかな。弁当たのんであるんだ |
| | ニッと笑うと、リッドは勢いをつけて着地し、玄関に回った |
| | |
| ギズロ | それで、村長のところはどうしたって? |
| | 食堂の入り口まで来ると、ギズロ・ツァイベルの話し声が聞こえてきた |
| ラミナ | さあ、わからないわ。子供の話だけじゃあ……あら |
| | ラミナは、リッドに気づいて口をつぐんだ |
| ギズロ | やあ、リッド。ファラはなんだって? |
| リッド | いまから聞きに行くんだ |
| | リッドは、キールの父親にも同じ質間をされたことにうんざりしながら… |
| | テーブルの上のパンや野菜、ベアのベーコンに視線を当てる |
| リッド | 自分で作っていい? |
| ラミナ | どうぞ |
| | ラミナは食料ののった皿をリッドのほうに寄せてやりながら |
| ラミナ | 様子がわかったら知らせてくれないかしら |
| | といった |
| リッド | ん、いいよ |
| | リッドは、彩りも味の組み合わせも考えないまま… |
| | ただめちゃくちゃにパンに食べ物をはさみ込みながら頷いた |
| | それからふっと顔をあげる |
| リッド | なんでそんなに気にするんだ? |
| ギズロ | そりゃ、ノリス・エルステッドは村長だからさ |
| | ギズロが、当然じゃないかという口調でいう |
| ギズロ | いいことでも悪いことでも、なにかあれば他の村人より早く駆けつけるのが望ましい |
| ギズロ | 村長はそういう人間を忘れないだろう |
| リッド | 包んで |
| | リッドは、あれやこれやがはみ出したパン── |
| | パンのほうがはさまれているようにも見える |
| | ──をラミナに差し出した |
| リッド | キ—ルと一緒に行ってくるよ。あいつもちょっと干したほうがいいみたい |
| ギズロ | ……なるほど、それは賛成だ。ははは |
| | ギズロはおかしそうに笑い声をたてかけたが、ラミナの険しい視線に気づいて唇をひきしめる |
| | リッドはふたりの様子にはおかまいなしにパンの包みを受け取ると、キールを呼んだ |
| | |
| キール | 待てよ。待てったら |
| | キールは土埃の舞う道の端に寄り、リッドの背中に手を伸ばした |
| リッド | なんだよ |
| | 振り向いたリッドは、キールを軽く睨みつけた |
| キール | もうちょっとゆっくり歩け |
| リッド | はあ? |
| | リッドは笑いそうになる |
| リッド | なにエラそうにいってんだよ |
| リッド | 山越えしようってんじゃない。すぐそこのファラんちに行くだけなんだぜ |
| リッド | いくらなんでも体よわすぎ! |
| キール | ちっ、ちがうよっ。リッドの歩きかたが乱暴だから、埃が目に入るんだ |
| キール | 目が悪くなったらどうしてくれる |
| | キールはキッとリッドを見据えた |
| キール | 本が読めなくなったらこまるだろ?せっかく父さんに新しい本を二冊買ってもらったばかりなのに |
| | ふうん、とリッドは友達の顔を覗き込んだ |
| リッド | 今度はなんの本? |
| キール | 『思考としての天文学』と『インフェリア動植物大全』 |
| リッド | なにそれぇ! |
| キール | うるさいっ |
| リッド | だってつまんなそうじゃん |
| キール | つまんないだって? |
| キール | 星や動物や植物のことが、いーっぱいいーっぱい書いてあるんだぞ? |
| キール | 図表だって挿し絵だって、こーんなに |
| リッド | おまえ、ほんとに本ばっか読んでるのな |
| | リッドはキールを遮り、くるりと前に向き直ると、ふたたび歩き出す |
| | 本ばかり読んでいるからおねしょが治らないのかな、とリッドは考えた |
| | 少なくとも自分とファラは本なんて読まないし、おねしょもしない |
| | が、結局のところはよくわからなかった |
| キール | リッド。ぼくに前を歩かせろ |
| | キールが小走りにやってくると、リッドを追い越した |
| キール | ほら、こうすれば土埃がかからないぞ。あははっ……! |
| | 走りながら上体をねじったせいだろうキールの足がもつれたと思うと、あっという間に地面に転がる |
| キール | ……う…… |
| | キール、とリッドはため息をついた |
| リッド | つかまれよ、ほら。なにもファラんちの前まで来てからわざわざ転ぶことないだろ? |
| | さし出された友だちの腕にすがりながら体を起こしたキールは、目の前に村長の家を認めると |
| キール | ……ほんとだぁ |
| | 女の子のようにか細く情けない声をあげた |
| | |
| リッド | おーい、ファーラー |
| | リッドはエルステッド家の門の外から思いきり声を張り上げた |
| リッド | ファーラーっ!いないのかよ |
| | 細く窓が開き、ファラが顔を覗かせる |
| | 彼女はひとさし指を唇に当ててみせてから、中に引っ込んでしまった。 |
| | ほどなく、玄関ドアから出てきたファラは、リッドに向かって顔をしかめてみせた |
| ファラ | しーっ、静かにしてよ。きょうは遊べないかもっていったでしょ? |
| リッド | だから来たんじゃん。みんな、いったいなにがあったのか気にしてるし |
| ファラ | たいしたことないよ |
| | ファラは、ダークグリーンのおかっぱ頭を振りながら、リッドとキールを均等に見ていった |
| ファラ | 父さんが、ちょっと熱を出したの |
| キール | 熱……ひどいのか |
| | キールは、いつも明るく澄んでいるファラの瞳がやや翳ったブラウンに見えるのに気づいて、訊ねた |
| ファラ | うん……よくわかんないけど、二、三日寝ていれば大丈夫でしょうって、母さんが |
| リッド | おばさん?ローティス先生じゃなくて? |
| | うん、とファラは不安そうに頷いた |
| | ローティスというのは、ラシュアンのはずれに住んでいる、年老いた医者の名だった |
| | キールは、彼がもともとケガの治療を得意とする医師であり… |
| | つまりは内科的な治療が専門ではないことを、両親から聞いて知っていた |
| | が、村人はみな、ちょっとした風邪のときは… |
| | ローティスに薬を調合してもらうのが習慣になっている |
| キール | (あの先生の薬はみんな、 そのへんに生えている野草で 作ってるんだよな) |
| キール | (その気になれば、ぼくにもできる) |
| | キールは心の中で思いながら、重ねて聞いた。 |
| キール | どうして先生を呼ばないんだ |
| ファラ | 呼びに行ったよ、もちろん! |
| | ファラはムキになって答えた |
| ファラ | でも、お留守だったの。遠くの村で病人が出て、頼まれてきのう出かけちゃったんだって |
| ファラ | 五日くらいは帰らないだろうっていわれて、母さん、戻って来たんだ |
| リッド | そっか |
| | リッドは腕組みをした。ようやく筋肉の目立ってきた肩のあたりが、わずかに盛り上がる |
| ファラ | けさ、リッドが来てくれたとき、母さんの帰りを待ってるところだったの |
| ファラ | だから外に出られなかったんだよ |
| リッド | もういいのか |
| | うーん、とファラは家の中を振り返るしぐさをし |
| ファラ | 母さんがつきっきりで看病してるからちょっとくらいなら遊んでも……いいかな |
| | と、笑った |
| リッド | よし。じゃあ、裏山へ行こうぜ。オレ、腹へっちゃって |
| | リッドが紙包みを見せると、ファラはくすくすと笑いだした |
| ファラ | じゃあ、朝のオムレツの残りがあるから、それも持ってこ |
| リッド | え |
| | リッドはわざとらしくキールの顔を覗き込んでから、ファラに向き直った |
| リッド | それって、おまえが作ったの?それともおばさん? |
| ファラ | あたしが作ったやつだったらどうだっていうの。食べられない? |
| リッド | まさか。いちおう食いもんだろ |
| ファラ | いじわる、リッド |
| | ファラはぷいと顔をそむけると、家の中に消えた |
| キール | どうしてそういういいかたをするのかな |
| | キールは、子供らしからぬ上目使いでリッドを見る |
| キール | いつもさんざんファラが作ったごはんを食べてるじゃないか |
| リッド | だからだよ。ファラのやつ、台所で怒らせるといつだってムキになって… |
| リッド | これでもかっていうくらい料理を作るだろ。ありゃ絶対、飲み物も持ってくるぜ |
| キール | おまえって…… |
| | キールは、あきれてため息をついた |
| | やがて、小さなカゴをさげて出てきたファラは… |
| ファラ | けさ、父さんのためにお茶をいっぱい作ったの。それも少し持ってきちゃった |
| | と、陶製の壜をふたりに示した |
| リッド | ほーらなっ。あはははは! |
| | キールの背中をバンっと叩き、先に立って歩きだしたリッドを、ファラは不思議そうに眺める |
| ファラ | どしたの? |
| キール | さあな |
| | キールは小さく首を振ると… |
| キール | 村長は薬を飲んでないんだな |
| | と、真顔で訊ねた |
| ファラ | そうだよ |
| ファラ | でも、父さんは体が強いし、そんなに何日も熱が出っぱなしのわけないからさ |
| ファラ | ヘーきヘーき。行こ |
| キール | ……うん |
| | キールはひとり振り返ると、ファラの父親が休んでいる家に視線を巡らせてみた |
| | が、いつもは誰かしら村人が訪れていて賑やかな家が、いまはただひっそりしているばかりだ |
| ファラ | キール!なにしてんの。置いてっちゃうよ |
| | 彼はハッとすると、あわてて幼なじみたちのあとを追いかけた |
| | |
| | 裏山は、実は山ではない。リッドたちがいつしかそう勝手に呼ぶようになっただけで… |
| | 実際にはファラの家の裏手から続くなだらかな丘だった |
| | しかし、陽当たりがいいのであっという間に彼らの姿をすっぽりと覆い隠してしまうほどに伸びる草や… |
| | 涼しい木陰を作ってくれる樹々のおかげで、幼いリッドたちは充分に山の気分を味わうことができる |
| | 三人は、柔らかな下草の生えている場所を選んで、座ることにした |
| ファラ | はい、オムレツに、お茶に、お菓子もあるよ |
| | ファラはかいがいしくふたりの少年の前に食べ物と飲み物を置くと… |
| | からっぽになったカゴを膝の上に載せる |
| ファラ | キールは食べないの? |
| | さっそく手を伸ばし、がつがつと頬張っているリッドを楽しそうに眺めながらファラが聞いた |
| キール | ぼくは、朝ごはんをちゃんと食べてきたからな |
| ファラ | ふうん…… |
| ファラ | ねえ、さっきから気になってたんだけど、それ、なにが入ってるの |
| | ファラは、リッドの手の中でガサゴソと音をたてている紙包みに興味を移して、身を乗り出す |
| リッド | 見る?キールんちの朝メシだよ |
| ファラ | えええ?こんなぐちゃぐちゃが!? |
| | ぐっちゃぐちゃ、とファラはもう一度繰り返した |
| キール | バッ、バカ!なにいってんだよリッド。ちがうだろ |
| キール | これはおまえが自分でこういうことにしたんじゃないのか…… |
| | キールは大真面目に抗議したが、口いっぱいに頬張っているリッドはわざと聞こえないふりをする |
| ファラ | わかってるよ、キール。おばさんがこんなもの作るわけないもん |
| キール | ふん |
| | キールは座ったまま、ふたりにくるりと背を向けた |
| リッド | 腹に……入っちまえば、おんなじだよ |
| リッド | どんな食べ方したって、混ざっちまうんだ |
| | ようやくベーコンのかたまりを飲み下したリッドは、お茶の壜を掴んで悟ったようにつぶやく |
| リッド | おい、いちいちいじけんなよ。キール |
| | リッドは、背中を丸くして地面をいじっているキールに、ニッと笑いかけた |
| リッド | キールってば、おい……? |
| ファラ | どうしたの |
| | ファラは腰をあげ、キールの肩越しに彼の手元を覗き込む |
| | キールは手当たり次第に草を引き抜いては、ぶつぶついいながら放り投げていた |
| リッド | 食える草でもさがしてんのか?腹へってるなら意地はらないでこっちのを食えよ |
| ファラ | そうだよ、キール。ねえ |
| | キールの手がぴたりと止まる |
| キール | ない。やっぱり、ない |
| | リッドとファラが顔を見合わせていると、キールはようやく振り向いた |
| キール | あの本はかなり正確だといえるかもしれないな |
| リッド | なんだ? |
| キール | 『インフェリア動植物大全』だよ。まだ全部読んだわけじゃないし、葉の形もうろ覚えなんだけど |
| キール | たしかキリアシュトリメラ草は、もう少し東の山の中にしか自生していないとあったんだ |
| ファラ | キリアシ……? |
| | ファラがきょとんとする |
| リッド | なんか、いたそーな名前 |
| キール | キリアシュトリメラ草。熱さましに非常に効果があるとされている野草だ |
| キール | たぶん、ローティス先生の薬にも調合されているんじゃないかと思う |
| ファラ | うわー、キールってすごい。むずかしくてなにいってるのかわかんない |
| | ファラが、ぱちぱちと拍手した。たちまち、キールの頬がうっすらと紅潮する |
| キール | ぼ、ぼく、もう少しあっちをさがしてみるよ |
| キール | ひょっとしたら一本くらい生えてるかもしれないし |
| リッド | 迷子になるなよ。草を見つける前に、モンスターに見つかったりしてな |
| | リッドがしれっというと、キールはぎくりとして唇をひくつかせた |
| キール | お、おどかすなよ。絶対ここにいるんだぞ!勝手に帰ったりしたら、ひどいぞ! |
| ファラ | キール、涙目のまま行くと転ぶよ |
| キール | うるさいっ |
| | キールはどたどたと地面にブーツをたたきつけながら、背の高い草をかきわけて行ってしまった |
| ファラ | だいじょうぶかな |
| リッド | なにが |
| | リッドは、りんごの甘煮をはさんだパンケーキを口に放り込むと、世にも幸せそうな顔になる |
| リッド | うんめぇ!だいじょぶだって。それよりさ |
| | リッドはニッと笑うと、ファラの耳元に顔を近づけた |
| リッド | あいつ、けさもおねしょしたんだぜ。おばさんがシーツ干してた |
| ファラ | ふうん。まだ治んないんだ、おねしょ…… |
| リッド | やっぱ、オレとちがってまだ子供なんだよ |
| リッド | ときどき、ファラより高くなるもんな、声 |
| ファラ | リッドは子供じゃないの? |
| | |
| | ファラがおかしそうに訊ねるのを、リッドが「しっ」と遮る |
| | |
| リッド | 動くな、ファラ |
| ファラ | !? |
| | ファラは、リッドの手が目にも止まらぬ速さで動くのをみた |
| | 腰からなにかを掴み取ると、草むらめがけて投げつける |
| | それが、目立たぬように装着していた鞘から小刀を抜いたのだとわかるまでいくらか時間がかかった |
| | バシュッ──! |
| リッド | 手ごたえ、あったっ! |
| ファラ | ……リッド? |
| | ファラは恐るおそるリッドを見上げる |
| リッド | 聞こえたろ?肉に刃が剌さる音 |
| ファラ | ……なにしたの? |
| リッド | なにって、獲物を……ちょっと待ってろよ |
| | リッドは、ファラの顔がまっ青になっているのを不思議に思いながら草むらに分け入り、すぐに戻って来た |
| | |
| リッド | ほら、ウサギ |
| | リッドに耳を掴まれぐったりしている重たげな野ウサギを見、ファラはほうっと息をつく |
| ファラ | なんだぁ、びっくりした |
| リッド | キールだとでも思ったのかよ。そんなわけないだろ |
| | リッドは笑いながら、美しい茶色の毛並みを持ったウサギをファラのカゴに入れてやる |
| リッド | おじさんに。オレ、薬のこととかよくわかんねーし |
| ファラ | あ、ありがと |
| | ファラはウサギに手を伸ばし、まだ暖かいその体温を確かめるように撫でた |
| ファラ | すごいね。こんなことできるんだ、リッド |
| リッド | まあな。ふー、食った食った |
| | リッドは草の上に仰向けに寝転ぶと、つぶやく |
| | |
| リッド | きょうも空がきれいだなあ |
| | はるか高みにある半透明のオルバースを見上げ、それからファラを見た |
| | |
| リッド | オレさ、猟師になろうかなー、なーんてね。けっこう向いてると思わねえ? |
| ファラ | うんうん。そりゃあ、思うよ |
| | ファラは、さっきもうひとりの幼なじみにしたのと同じように、ぱちぱちと手を叩いた |
| リッドのとかげ | scene2 |
| | その夜、リッドは夕食の席につくなりビッツ・ハーシェルに一日のできごとを話して聞かせた |
| ビッツ | それで、結局どうしたんだ |
| リッド | うん。キールが草の汁と泥で服を汚しちゃったから、いっしょに家まで行ってやった |
| ビッツ | そうじゃなくて |
| | 野菜をとろけるほど煮込んだスープをすすりながら、ビッツは微かに眉を寄せる |
| ビッツ | ローティス先生がいなかったからってそのままただ寝ているのか、村長は |
| リッド | たぶんね。だってしょうがないだろ |
| ビッツ | 誰かが別の医者を呼びに行ったんじゃなくて? |
| リッド | ああ。しばらく寝てれば治るって。ファラんち、すごく静かだった |
| ビッツ | ノリス……あの人らしいな |
| | ビッツはため息をつくと |
| ビッツ | 昔からそうなんだ |
| ビッツ | 村長は人のためには足が擦り減るほど駆けずり回るが、自分のために人をわずらわせるのはイヤなんだよ |
| ビッツ | たぶん、なるべく誰にも知らせないようにしているんだな |
| | と、リッドの皿にパンをのせてやった |
| リッド | 別の医者なんて、いたのか |
| | 息子のまっすぐな言葉に、ビッツは思わず笑ってしまう |
| ビッツ | そりゃそうさ |
| ビッツ | ローティス先生ひとりで、インフェリアじゅうの病人を診るわけにはいかんだろう |
| リッド | じゃあ、母さんは…… |
| ビッツ | ん? |
| リッド | ううん、なんでもない |
| | リッドはあわてて首を振る |
| | |
| ビッツ | 母さんを治してくれなかったのは、どこの医者かと間きたいんだな |
| | |
| リッド | ……! |
| | 図星だった |
| | リッドはうつむく。その髪をビッツの大きな手がくしゃくしゃとかき回した |
| ビッツ | 心配するな。ローティス先生じゃない |
| ビッツ | それに最期は……容態が急に変わってな |
| ビッツ | 医者を呼ぼうにも間に合わなかったんだよ…… |
| | ビッツの声は、囁きから吐息へと変わる |
| リッド | (間に合わなかった……? そんなことがあるんだ) |
| | リッドの心に恐怖が生まれた |
| リッド | ファラの父さんも……死ぬかもしれない? |
| ビッツ | はははっ、まさか |
| | ビッツはわざとらしい明るさで、息子の心配を笑い飛ばした |
| ビッツ | おそらくは本当に何日かで治ってしまうだろうよ |
| ビッツ | でも、俺だって気がかりなのは同じだ |
| ビッツ | 明日の朝、村長の家に行って具合を聞いてみるよ |
| ビッツ | 思わしくないようなら、近くの村の医者を呼びに行ってこよう |
| リッド | うん。そうして |
| | リッドはほっとしたように微笑むと、パンをスープに浸した |
| | 死のイメージがぼんやりと、しかし確実に心の中に入ってきた気がする |
| | リッドはそれを噛み砕くように、黙もくとパンを平らげ始めた |
| | |
| | 翌朝、ビッツとリッドがエルステッド家に着いたときには、すでに先客がいた |
| リッド | キール! |
| | リッドは、広い居間に両親といっしょに座っているキールの姿を見つけると |
| リッド | なんでここに? |
| | と聞いた |
| キール | リッドと同じだよ |
| | キールはすっきりしない顔のまま、答える |
| ビッツ | 村長はどんなだって? |
| | ビッツがギズロに訊ねると |
| ギズロ | 熱が下がらんそうだ。いま、ファラが奥さんに様子を聞きに行ってる |
| ギズロ | 目が覚めていれば話ができるだろう……ああ、ほら |
| | と、顎をしゃくった |
| | ドアからファラがぴょこんと顔をのぞかせていた |
| ファラ | 母さんが、寝室へどうぞって。リッドのおじさんもどうぞ |
| ビッツ | ああ、それじゃちょっと |
| | ギズロ、ラミナ、ビッツの三人がぞろぞろと居間を出ていってしまうとリッドはキールの顔をじっと見た |
| キール | な、なんだよ |
| リッド | おまえ、きのうオレが帰ってから、叱られたろ |
| キール | ……ああ |
| | ファラが、瞳をくるくるさせながらソファに腰かける |
| リッド | あんだけ服を汚せば当然だよな |
| リッド | でもおまえは寝る前にちゃんと本を読んだ。あの草がのってるっていう |
| キール | 『インフェリア動植物大全』だ! |
| リッド | それで夜更かししておねしょして、けさまた叱られた。でもって、また泣いた |
| キール | なにがいいたいんだよっ! |
| リッド | ものすごくさえない顔~ |
| キール | ……っ! |
| | キールは顔をまっ赤にし |
| キール | きょうは本を読みたかったのに、無理やりお見舞いだっていってつれてこられたんだ |
| キール | 母さんは看病の手伝いをするつもりだし、父さんは別の村に医者を呼びに行こうといってる |
| キール | 大人の事情につきあわされてるから怒ってるだけだぞ! |
| | と、早口にまくしたてた |
| リッド | ふーん。オレの父さんも医者を呼びに行くらしいぜ |
| | リッドは腕を組みかけ、思い出したように腰に手をやった |
| リッド | (よし。ちゃんと持って来てる……) |
| リッド | キール。だったら子供がここにいてもしょうがないじゃん。おまえんちで遊ぼう |
| キール | え、なんで…… |
| リッド | 早く父さんたちにいってこいよ。帰れば本が読めるぜ |
| キール | それは……そうだけど |
| | キールは疑わしそうにリッドをちらちら見ながらも── |
| | 読書の誘惑には勝てないらしい |
| | ──居間を出ていった |
| ファラ | なんか楽しいこと考えてるね、リッド。教えてよ |
| | 立ち上がったファラに、リッドはぼそぼそとなにごとか囁いた |
| ファラ | うそっ!あたしもあたしも!ぜったい混ぜてよー! |
| | ファラはじゅうたんの上を跳ね回った |
| | |
| | リッドたちがツァイベル家の庭に入ってまず目にしたものは… |
| | きのうキールが着ていた服と、シーツだった |
| | どちらもきれいに洗濯されて、朝の光の中にはためいている |
| | ファラとリッドはなんとなく目を合わせると、薄く笑った |
| | |
| | キールの部屋はほぼ整頓されていたが机の上にいくつかの本の山ができていた |
| リッド | で、どれだよ、キール。きのうのトリアシ |
| キール | キリアシュトリメラだったら!ほんとにリッドはもの覚えが悪いな |
| | キールはいかにも不機嫌そうに『インフェリア動植物大全』をリッドに差し出した |
| キール | しおりがはさんであるだろう。そこに出てる |
| リッド | どれどれ……どうでもいいけど重てえな、この本 |
| | リッドはベッドの上で本を広げると、ファラといっしょに覗き込んだ |
| ファラ | ふうん。ほんとだ。あたし、読んでみるね |
| | |
| ファラ | 『キリアシュトリメラ草── トリメラ科の一年草』 |
| ファラ | 『葉の形状に特徴があり、 先が三つに割れている』 |
| ファラ | 『その根は解熱剤として 広く用いられる。 ぶんふ、ぶんぶ……ぶんぶん?』 |
| | |
| キール | 分布だよ、ファラ |
| | キールがいう |
| | |
| キール | きのうもいったけど、分布地には残念ながら、ラシュアンは含まれない |
| キール | だが、わずか東のウルムの山には自生している可能性が高い |
| リッド | ウルム。それ、どのへんだ? |
| | リッドは壁に張ってあったインフェリアの地図を勝手にはがすとキールが座っている机の上に広げた |
| キール | ……ウルムは、えーと、このへんかな |
| | キールは地図の端が破れてしまったのに気づいてムッとしながらも、✕印を描き入れる |
| リッド | なんだ、けっこう近いじゃん! |
| | リッドがうれしそうに叫ぶのに、キールは上目使いで訊ねた |
| キール | それがなにか? |
| リッド | え、いや、べつに |
| キール | べつに?じゃ、聞くけど、ファラがしょってきた大荷物はなんなんだよ |
| | キールは、ドアの脇にそっと置かれている布袋に目をやる |
| ファラ | あ、これは……だから、ランプとか鍋とか? |
| | ファラが小さな手をひらひらさせながら笑った |
| キール | 鍋……って……リッド、ファラ。いっとくけど、ウルムの山までたっぷり半日はかかる |
| キール | そんなに高くはないが、険しい山なんだぞ |
| ファラ | ものしりだね |
| | リッドは、ふんと笑った |
| リッド | 父さんたちはいまごろきっと医者を呼びに出発しただろう |
| リッド | でも、もしローティス先生みたいに留守だったらどうする? |
| リッド | オレたち子供が薬をとってきたら、みんなびっくりするぞ |
| リッド | それに、オレとファラは行くことに決めたけど、なにもおまえまでついてくることはないんだ |
| リッド | 半日かかってウルムについて、陽が落ちるまでに薬草を採って下に降りれば… |
| リッド | あとは夜道でも平気じゃないか |
| キール | ………… |
| | キールは黙って唇をかみしめている |
| ファラ | あたし、早く見てみたいなあ。先が三つに割れてる葉っぱ。そんなの、このへんにはないよねえ |
| リッド | そうだよな |
| | 相づちを打ちながら、リッドは『インフェリア動植物大全』のページをぱらぱらと繰った |
| | ところどころ目についた文章を拾い読みする── |
| | といっても、むずかしくてほとんどわからなかったが |
| リッド | あ!? |
| | リッドの手が止まったのと、キールがため息をついたのは、同時だった |
| キール | わかったよ。でも、どうなっても知らないからな |
| | キールは引出しから一枚の紙を取り出すと、リッドに投げて寄こした |
| リッド | なんだこれ |
| | そこには本に載っているのとそっくりなキリアシュトリメラ草の絵が描かれていた |
| キール | 模写だよ。ゆうべなんの気なしに描いたんだ、珍しい形の葉だから |
| キール | 持って行けよ |
| ファラ | ありがとう、キール |
| | ファラがお礼をいうのを、リッドは咳払いで遮った |
| リッド | おい、キール。お茶をいれてきてくれよ。なんか、喉がヘンなんだ、さっきから |
| キール | ほんとか? |
| | まったく信用していない目で、キールがリッドの顔を見つめる |
| リッド | ほんとだよ。なんなら、オレが台所に行こうか?皿とかカップとか割ってもいいなら |
| リッド | ……きっとおばさん怒り狂って…… |
| キール | ぼくが行く |
| | キールは珍しくすばやい身のこなしで部屋を出て行った |
| ファラ | 今度はなに |
| | ファラがわくわくしながら訊ねる |
| リッド | これ、見てみろよ。動物のほうのページに載ってたんだ |
| | リッドが本をファラのほうに向けた |
| | なんだ、とかげじゃない。ずいぶん派手な色だねえ |
| | ファラは他の動物のページ── |
| | ベアやウサギやピヨピヨ、美しい蝶などの昆虫類まで網羅してある |
| | ──にざっと目を通してから、ふたたびそのとかげを見た |
| | 地は黒なのだが、そこに強い黄と紫の縞が入っている |
| | なんとも凶まがしい印象を受けるとかげだった |
| ファラ | 『ダンダラワライトカゲ── ナキトカゲ科』 |
| ファラ | 『インフェリア全土の山地に ぶんぶ、じゃなくて分布する』 |
| ファラ | 『ぞくせつとして、 その黒焼きはやにょうしょうに きくといわれる』 |
| ファラ | 『りゅういてんとしては、 同様のもんようをもつ とかげが……』 |
| ファラ | うーん、あとは読めないなあ……でも、やにょうしょうって、おねしょのこと、だよね? |
| リッド | そうさ。薬草のついでにこれも捕まえて、キールのやつに飲ませてやろうぜ |
| リッド | ファラ、新しい紙とペン、とって |
| ファラ | うん! |
| | ファラは机の上からそれらを勝手に取ると、リッドに渡した |
| | キールの足音が小さく聞こえてきたのは、そのときだった |
| リッド | げっ。やべぇ、早く写さなきゃ |
| ファラ | あたしがなんとかするからっ |
| | |
| | ファラは部屋を飛び出し、廊下の曲がり角でキールを待った |
| | 湯気の立つカップを載せた盆をささげ持ったキールが目の前に現れると |
| ファラ | えーと……と、とおせんぼっ! |
| | いきなり両手を広げる |
| キール | なんのまね? |
| | キールがあきれて訊ねる |
| ファラ | え?いやぁ、なんていうか、急にいじわるしたくなっちゃって |
| キール | 通して。熱いから危ないよ |
| ファラ | う、うん…… |
| | ファラはしぶしぶ手を降ろすと、振り向きざまに叫んだ |
| ファラ | リッドぉ。もういいかーい? |
| | もういいぞぉ、と返事が返ってきた |
| キール | なんだよ。かくれんぼもしてたのか |
| | キールは首を捻りながら、ファラの脇を抜けて行った |
| リッドのとかげ | scene3 |
| キール | うわあああっ! |
| | キールは、ずりずりと斜面から滑り落ちながら、両手でむなしく虚空を掴んだ |
| | いったんバランスを崩した体を、彼の場合、立て直すのは不可能に近かった |
| リッド | ほらよっ |
| | どこからか手が伸び、キールの手首をぐいと引っ張り上げる |
| キール | ご、ごめん |
| リッド | いいかげんにしろよ。さっきからちっとも登ってねえよ、おまえ |
| リッド | いちいち戻って来るオレの身にもなれよなー |
| キール | でも、ここ、すごいナナメ…… |
| | 早くも声を湿らせているキールに、リッドはあからさまなため息をついてみせた |
| リッド | どうすんだよ、もう夕方だぜ? |
| リッド | この時間にはとっくになんとか草を採ってるはずだったじゃん |
| リッド | おまえなんかつれてくるんじゃなかった |
| キール | なんだよぉ |
| | キールがリッドの手を振り払う |
| キール | やっぱりいっしょに来いっていったのはリッドたちじゃないかぁ! |
| キール | ぼ、ぼくはイヤだったんだ!父さんと母さんにだまってこんな……ううっ |
| リッド | 泣くなよ |
| リッド | おい、ファラ |
| | リッドはうんざりして、斜面のずっと上のほうにいるファラを呼んだ |
| リッド | 交代で面倒みようぜ。オレばっか登ったと思ったら戻って世話して、登ったと思ったらまた下って…… |
| リッド | いまごろ世界一高い山のてっぺんについてるくらい歩いたぞ |
| ファラ | やあよー! |
| | 返事は即座に降ってきた |
| | リッドが見上げるファラは、両手を腰に当て、ひどく高慢に見える |
| リッド | (ちぇっ、なんだよ。 村長の娘だと思ってさ) |
| | |
| | リッドたちは、ラシュアンを出るまでに何人もの村人に出会った |
| | どのおとなも気さくに声をかけてきたが… |
| | ファラの顔を見ると、そこには決まって微かな変化が起きるのだった |
| | 敬虔さからくる礼儀や親しみのほかに村長に対する媚びが含まれていることを… |
| | もちろんリッドが具体的に理解していたわけではない |
| | が、自分やキールに対するのとは違う彼らの態度を受けて… |
| | ファラまでもが映し鏡のように微妙な変貌を見せるのは、本能的に気持ちのいいものではなかった |
| | |
| リッド | しょうがねえな。もう少し登ったら休もうぜ。だからがんばれよ |
| | リッドは、キールの手をとり直す。今度は振り払われなかった |
| リッド | ひっぱってやるから、明るいうちになんとか草をさがしながら歩いてくれよ |
| キール | ……うん |
| | キールは涙のあとを拳でぐいぐい拭いながら、頷いた |
| | 濡れた頬に山の冷気が忍び寄ってくる |
| | 冗談ではなく、早く平坦なところを見つける必要があった |
| キール | リッド。ファラにいって。火を焚けるところを見つけたら、そこで止まってくれって |
| リッド | 自分でいえよ |
| | リッドはそれでも、キールの不安を感じとったようだった |
| | 力強くキールをひっぱりながら、ずんずん登ってゆく |
| | キールは転倒の心配がなくなった分、足元に注意をはらうことができた |
| | 山に入ったときに強すぎるくらいだった陽差しは… |
| | 樹々をつたう蔓の一本、透ける緑の葉脈まではっきりと見せてくれていたが… |
| | いまは足元に動くものが自分のブーツであると確認できる程度でしかない |
| | だが、キールはあきらめないで目を凝らし続けた |
| キール | リッド、待て!この葉……いや、ちがった |
| | ちぎった葉の一枚を、リッドに手渡す |
| リッド | どれ……なんだ、ぜんぜん割れてないじゃん |
| リッド | だいたい、こんなに暗くちゃムリなんだよ |
| キール | でも、見つけなきゃ今日じゅうに帰れないよ |
| リッド | 今日じゅうだって?いますぐ見つけても…… |
| | ふたりはそれから、黙りこくって山の斜面を登り続けた |
| リッド | (怖くなんかないぞ。 暗くても、怖くなんか……!) |
| | リッドはキールの手をしっかりと握りしめる |
| | そこだけは、汗ばむほどに熱く感じられるのだった |
| | |
| ファラ | あれーっ。ヘンだなあ。またこの木のところに出ちゃった |
| | ファラは、落胆の声をあげると、小さな肩をがっくりと落とした |
| | さっきから何度も同じところを通っている |
| | この、特徴のある膨らみを持った樹を左に見て、どんどん登っていくのだ |
| | するといつの間にか、地面が下りになっている |
| | そしてここへ戻って来てしまうというわけだった |
| | 歩きやすそうなところを選んで進むので、まっすぐに登っているとはいえないが… |
| | それにしても納得がいかない |
| | ファラは、足の裏がずきずきと痛みだしたのに顔をしかめながら |
| ファラ | どうして? |
| | と、つぶやいた |
| | すでに夜の気配が迫っているのがわかる |
| | いいようのない不安と恐怖に、彼女はぶるっと身を震わせた |
| ファラ | (こんなことなら、 やっぱりあのとき 戻ろうっていえばよかったな……) |
| | ファラは、ウルムの山の麓に着いたときのことを思い出していた |
| | |
| | ラシュアンの大河の手前を南下したあたりから、ウルムヘのなだらかなカーブを描く上り坂になった |
| | 山は、カーブを曲がりきったとき、突然ファラたちの前にその姿を現わしたのだった |
| | 幾重にも重なり合う樹々に覆われた斜面は濃い緑をしており、侵入者を拒んでいるかのように見える |
| リッド・ファラ・キール | すごーい! |
| | 三人は、目の前に圧倒的な重量感で横たわっているウルムを見上げて… |
| | ぽかんと口をあけることしかできなかった |
| ファラ | ……た、高いね |
| リッド | ああ……思ったより、ちょっとな |
| | ファラとリッドは、頷きあいながらコクリと喉を鳴らした |
| | キールはと見れば、彼はまっ青な顔で震えている |
| ファラ | キール? |
| キール | だ、大丈夫だよ。ちょっと気持ち悪くなっただけ……だから |
| | 太陽の光はすでに天項を越え、あとは沈むだけの体勢に入っていた |
| ファラ | (どうしよう……。 このまま村に帰れば 誰にもバレないよね) |
| リッド | じゃ、行くぜ |
| | そのとき、リッドが意を決したようにいった |
| ファラ | うん! |
| | ファラは思わずつられて元気のいい返事をしてしまう |
| | 戻ろうよ、という言葉を彼女は飲み込み、ウルムヘ足を踏み入れたのだった |
| | |
| ファラ | (どうせリッドだって、 ほんとは帰りたかったに きまってるよ) |
| | ファラがそんなことを思いながら、樹の幹に身をもたせかけているうち… |
| | ようやく小さな足音が下から這い登ってきた |
| ファラ | リッドぉ!キールぅ!こっちこっち |
| | 肩で息をしながらファラのそばまで来たふたりは、地面にべったり座り込んだ |
| リッド | ここで休むのかよ。オレはもっと上のほうかと思ってた |
| キール | でっ、でも。ここでいいよ。火を焚くにはうってつけだ。平らでっ、広さもあるしっ |
| | リッドの強がりに気づかず、キールは焦って抗議した |
| ファラ | ほんとはもっともっとずっと上のはずだったんだけど |
| ファラ | それがさあ、おかしいんだ。この先をずっと行くと、また戻ってきちゃうんだよねえ |
| リッド | なんだよ、それ |
| ファラ | ……わかんないよ |
| | ファラは、ふたりの横に腰をおろす |
| ファラ | モンスターに化かされたのかも |
| キール | ……そんな |
| | 三人は、ぞっとしながら自分の体を抱きしめた |
| リッド | どうしよう。まっ暗になってきたぜ |
| キール | とにかく焚き火だっ |
| | それはいいけど、とファラは訊ねる |
| ファラ | 今晩、ここに泊まるの? |
| | |
| リッド・キール | ………… |
| | |
| | 沈黙が流れた |
| | ぐすっ、と鼻をすすったのはキールだった |
| リッド | 泣くなっ! |
| | リッドが怒鳴る |
| リッド | そんなひまがあったら薪になるものを拾ってこいよ |
| リッド | 暗くて寒いの、おまえだってイヤだろ? |
| リッド | 早くっ! |
| | キールはリッドに肩を乱暴に叩かれ、しゃくりあげながら繁みの中に入っていった |
| ファラ | リッド。ひとにあたるのはよくないよ |
| リッド | うるさい。あいつのせいでこんなに遅くなったんだ |
| ファラ | それは、そうかもしれないけど…… |
| | ファラは布袋を引き寄せながら |
| ファラ | それで、キリアシュトリメラ草は? |
| | と聞いた |
| リッド | ねーよ。こんなに暗いのに見つかるわけないだろ |
| リッド | だいたい、ほんとにこの山に生えてるかどうかだって、わかんねーじゃん |
| ファラ | なによ、そのいいかた。最初にここに来ようっていったの、リッドだよ? |
| リッド | うるさいったら……! |
| | そのとき、上空で「ギャギャ──っ!」という鋭い声が響いた |
| | 続いてバサバサという羽音 |
| ファラ | きゃっ、なに!? |
| リッド | 鳥……だろ。くそう、見えりゃしとめてやるのにな |
| | リッドは暗い空を見上げてくやしそうに拳をにぎった |
| リッド | 食いもん、なにもってきた |
| ファラ | え。えっとね、お水と干し肉。母さん、ずっと看病してて、あんまりごはん作ってなかったの |
| リッド | そっか |
| | リッドは勢いよく立ち上がると、腰の小刀を抜く |
| | それから枯れてなお樹々の幹に巻きついている蔦や… |
| | 比較的よく燃えそうな小枝などを手探りで切り落とし始めた |
| リッド | ランプと鍋はあるんだよな。こっちは暖まり用だ |
| | リッドはひと抱えほどの枝葉を、ファラの前にどさっと落としてやる |
| ファラ | うわあ、ありがと、リッド。これだけあればすぐにあったかくなるよ |
| ファラ | ランプの火を移せばいいよね |
| | ファラは歓声をあげ、布袋の口を開けた。そこに両手をつっこんだところで |
| ファラ | あれ |
| | と、首を傾げる |
| ファラ | わたし、なんか……忘れてるみたいな…… |
| リッド | あ? |
| | リッドは興味なさそうにファラのほうを見て |
| リッド | オレ、腹へっちまったよ。ほかのことなんてどうでもいいや |
| | と、胃のあたりをさすってみせる |
| ファラ | はいはい、すぐできるよ |
| | ファラはてきぱきと食事の支度をはじめた |
| | 煮炊き用のランプに火を入れ、壜の水を鍋にあける |
| | 手を動かすことで、不安と恐怖が薄れていくのがわかると… |
| | あとはむしろ楽しい作業といえるくらいだった |
| | |
| | 湯が沸き始めるころ、キールが戻ってきた |
| キール | うわ、煙いな。なにを燃やしてるんだ |
| ファラ | 遅かったね、キール。リッドが燃えそうな枝やなにかを切り落としてくれたんだよ |
| | ファラは、キールに「そっちに座って」と指さしながら説明した |
| リッド | 迷ったかと思ってたぜ。あれ、おまえの薪は? |
| | リッドは、キールの手元を見る |
| キール | いや、なんか湿ったのばっかりで……かわりに葉っぱをたくさん採ってきた |
| | キールはふところから数十枚の木の葉をごっそり取り出すと火にかざしてみせた |
| リッド | そんなの使えねーよ |
| キール | ちがうよ。燃やすんじゃなくて、分類するんだ |
| キール | ああ、『インフェリア動植物大全』がいまここにあればなあ!持ってくればよかった! |
| リッド | バーカ |
| | リッドはせせら笑う |
| リッド | あんな重いの持ってたらおまえ、ウルムにたどり着く前にぜったいへばってたぜ |
| キール | そんなことないよっ |
| | そのとき、ファラがハッと身をかたくした |
| | |
| ファラ | しっ!ふたりともだまって |
| | |
| | リッドとキールは驚いて、ファラを見た |
| | パチパチと焚き火の爆ぜる音が、やけに大きく聞こえる |
| キール | ……な、なんだよファラ |
| | キールが震え声で訊ねた |
| ファラ | いま、誰かが笑ったの |
| キール | なんだって |
| ファラ | 笑ったんだってば。誰かいる……誰かがわたしたちを見てるんだよ! |
| リッド | んなこと……あるかよ |
| | リッドが泣き笑いの表情で、おそるおそるあたりを見回した、そのときだった |
| | カタカタカタカタカタカタカタカタカタ……………… |
| ファラ | きゃあああ、ほらっ。ほらねっ!? |
| | ファラが悲鳴をあげる |
| リッド | ほ、ほんとだ。でも、笑ってなんかいないぜ。カタカタいってるだけで。なあ |
| | リッドはキールに同意を求めたが、キールは答えない |
| リッド | カタカタカタ……か。カタカタ鳴るっていえば |
| ファラ | いえば、なに? |
| | ファラがからっぽの布袋を抱きしめて震えながら訊く |
| リッド | うーん、やっぱあれかな。骨 |
| ファラ | 骨ぇ!? |
| ファラ | リッド、どうしよう。ガイコツだよ。ガイコツが来たんだあ。わたし、食べられちゃう |
| キール | しーっ |
| | 泣き叫びだしたファラを制したのは、キールだった |
| キール | 落ち着いて。聞こえるよ、ほら |
| ファラ | ………… |
| | ファラは口元をしっかり手のひらで押さえると、必死で耳を澄ませてみた |
| | んふ、んふふふふふふふふふふふふふふふ……………… |
| リッド | ……わ、笑ってる |
| | リッドが目を丸くする |
| リッド | だっ、誰だっ!?出てこいよ、オレが相手になってやるっ! |
| | 小刀を抜き放ったリッドを見て |
| キール | おまえも落ち着け。みっともない |
| | キールはひどく冷静にたしなめた |
| リッド | みっともない?なんでだよ |
| リッド | あっ、ほらまた聞こえたぞ!カタカタんふんふいってるじゃないか |
| リッド | さっきファラを化かしたモンスターだぜ、きっと |
| | |
| キール | 座れよ。あれは、とかげだ |
| | |
| リッド | へ? |
| キール | ナキトカゲ科のやつは、たいていあんな声で鳴く |
| キール | カタカタもんふんふも、たいした違いはない |
| キール | 個体によって、かなり鳴き声に幅があるらしいよ |
| キール | だからナキトカゲ科なのに、ワライトカゲの名前がついていたりするんだ |
| キール | ……とはいっても本で読んだだけで、ほんとに聞くのはぼくもはじめてだけどな |
| リッド | ……とかげ |
| | 拍子抜けしたリッドがふたたび座ろうとしたところを、ファラが思いきり引っぱった |
| リッド | なんだよ、痛いだろ |
| ファラ | いいからちょっと来てよ、リッド |
| | ファラは焚き火から少し離れた、繁みぎりぎりのところまでリッドを引っ張ってくると、早口で囁いた |
| ファラ | ねえ、いま鳴いたのって、あれじゃない? |
| リッド | あれって? |
| ファラ | だから、ほら、ダンダラワライトカゲ、だっけ。やにょうしょうにきく、っていうやつ |
| リッド | あ |
| リッドのとかげ | scene4 |
| リッド | 寝しょんべんの薬か。すっかり忘れてた |
| ファラ | わたしも。なにか忘れてるとは思ったんだけど |
| | そもそもウルムにキールを同行させようと思ったきっかけがとかげだったことを… |
| | ふたりはやっと思い出したのだった |
| ファラ | つかまえようよ |
| リッド | でも、あいつに見つかるとまずいだろ |
| ファラ | うん。キールが素直に食べるわけないもんね |
| ファラ | おねしょっていっただけで、泣きながら怒りそう |
| | リッドは、咳払いをしてから、当の幼なじみを振り向いた |
| リッド | なあ、キール。とかげ、近くにいるんだよな |
| キール | え |
| | 火明かりを頼りに分類をはじめたのかぶつぶついいながら木の葉を地面に並べていたキールは… |
| | 下を向いたままで答える |
| キール | ああ。ふつう、獣は火を怖がるというけど、羽虫なんかは近寄ってくるだろう? |
| キール | それを食料にしているやつはやっぱり火のそばに来るんだ |
| リッド | なるほど |
| | いわれてみれば火の周りに、大きな蛾が数匹飛び交っているのが見える |
| | リッドは、キールがふたたび木の葉に夢中になったのを見届けてから、ファラに向き直った |
| リッド | すぐ近くにいるってさ。見えないか |
| ファラ | えー、どこよ |
| | ファラは足元を見回したが、動くものの気配は感じられなかった |
| ファラ | どんなとかげだっけ…… |
| ファラ | そうだ、リッド。本の絵を写してきたんだよね。それ、見せてよ |
| リッド | いいよ |
| | リッドは、くしゃくしゃに折りたたまれた紙をファラに差し出した |
| | ファラは、怪しまれないようにひとりでさりげなく火のそばに戻ると… |
| | ランプの調子をたしかめるふりをして、紙を開いた |
| ファラ | ……!? |
| | 顔を上げると、リッドが得意そうに笑っている |
| | ファラはその能天気な笑顔にかっとなって、口の形だけで「バカ」といった |
| リッド | なんだって? |
| | リッドが近づいてくる |
| リッド | バカっていったろ、いま |
| ファラ | しーっ。いったよ。だってこれ、なんの絵よ |
| | ファラは声をひそめながら紙を指さした |
| リッド | 決まってるだろ。とかげに |
| ファラ | しーっ、それいっちゃダメ!声が大きいったら! |
| | ファラが思わずリッドの肩を小突くとバランスを崩した体があやうく火の中へ入りそうになる |
| リッド | うわっちっちっちぃ!なにすんだよっ。やけどするだろ |
| ファラ | だってリッドが…… |
| | キールが、すっと顔をあげる。同時にふたりは口をつぐんだ |
| キール | どうかしたの |
| ファラ | うっ、ううん、なんでもない。ごはん、もう少し待ってね |
| キール | 別にいいさ。お腹へってないし |
| ファラ | そ、そう |
| | ファラはほっとしながら、ふたたび絵を指さして「これなに」と訊ねる |
| ファラ | とてもじゃないけど、リッドのいうものには見えないよ |
| リッド | じゃ、なにに見えるっていうんだよ |
| | |
| ファラ | それは── |
| | ファラは絵をじっと見つめていたが、きっぱりとした口調で告げた |
| ファラ | 木くらげ |
| | |
| | ぶはっ、とリッドが吹きだした |
| | 焚き火の灰が舞いあがる |
| キール | こらっ、リッド!なにするんだよ、葉っぱに灰がかかっちゃうじゃないかっ |
| | キールが怒ったが、おかまいなしだった |
| リッド | あはははは、木くらげ。木くらげ?あははははは、はははははは |
| ファラ | なによう、なんで笑うのよ。自分がへたっぴなくせにぃ |
| リッド | だって、なんで、これが……はははははっ |
| | ファラはあきれてリッドが笑い続けるのを眺めていたが… |
| | やがてがまんできなくなって自分も吹きだした |
| ファラ | うふふ、はははっ。リッドったら、ヘンなの。おかしいよ。あはははは── |
| | ふたりの笑い声は、静まり返った山の暗闇に響き渡り、吸い込まれるように消えていった |
| | それでもお腹をかかえ、笑い続ける |
| | おとなたちに黙って村を出てきてしまった罪悪感 |
| | こんな山の中で動けなくなり、野宿をしなければならない不安と恐怖が… |
| | リッドとファラに強すぎる緊張を強いていたのだろう |
| | 反動からくる笑いは、キールを気味悪がらせるほどだった |
| キール | だいじょうぶか、ふたりとも |
| リッド | あははは、ぜんっぜん、だいじょうぶー |
| | |
| | そのときだった |
| | |
| | 地面に転がっていたリッドは、夜空に不思議な光を認め、あわてて起き上がる |
| リッド | なんだ……!? |
| | 星ではない。よく見ると、もっとずっとそばで光っている |
| | 色は紫に近いだろうか |
| | 光の縞が七、八本ずつ、ひとかたまりになっているのだった |
| | ひとつのかたまりの大きさはリッドの手のひら程度だったが、それが何十、何百と灯っている |
| リッド | お、おい、キール。あれ |
| キール | ん? |
| | 周囲の樹という樹が、見慣れない光をくっつけて揺れているようだ |
| ファラ | あはははは……は……? |
| | ひとりで笑い続けていたファラも、ようやく異変に気づき、いまは静かに息を弾ませていた |
| キール | おまえたちの声に反応して光ってるんだ |
| ファラ | なんなの、キール |
| キール | とかげ |
| | うんざりしたようにキールが答えた |
| キール | 本によると、鳥の声や、雷などにも反応してだんだらに光るらしい |
| リッド | (とかげ……だんだら……) |
| | リッドはファラに頷いてみせると、もう一度、今度はキールに気づかれないように小刀を抜いた |
| | それから、目にもとまらぬ速さでそれをいちばん近い樹の幹に放った |
| | カツッ! |
| | 覆いをかけたように、そこで光っていた縞状の光が消える |
| | とかげを仕留めたのだった |
| | 驚いたことに、それを合図にするかのように、他のとかげたちも闇に溶けた |
| | 何百ものカサコソという微かな音で幹を震わせながら、山の深みへと逃れてゆく |
| ファラ | さ、さあ、干し肉のスープがもうすぐできるよ |
| | ファラはランプをキールから遠ざけると、リッドが小刀を投げた幹へ近づいた |
| | 刃はみごとにとかげの胴を縦に貫いており… |
| | 磔になったその尻尾だけがぴくぴくと動いている |
| | おそるおそる触ってみると、もう逃げることなどできないのにもかかわらず… |
| | 尻尾は切れて彼女の手の中に落ちた |
| ファラ | (きゃ、びっくり…… まだぴちぴちしてる) |
| | リッドが来て、小刀を抜いてくれた |
| | ファラはそっととかげを掴むと、鍋の下に差し入れる |
| | 幸い、キールはなにも気づいていないようだ |
| | 干し肉を裂いて湯の中に落とす。だしが出れば即席のスープのできあがりだった |
| | もともと小ぶりなとかげにはその間に充分火が通り、哀れにもまっ黒い姿に変わっていた |
| | 多少の剌激臭はあったが、なんとかごまかせそうだ |
| | |
| リッド | メシ、できたかー? |
| ファラ | うん |
| | ファラはリッドに耳打ちする |
| ファラ | ほんとに、やるの?バレないかな。きっと苦くてすっごくまずいよ |
| | やろう、とリッドは即座に答えた |
| リッド | 毎日おばさんに叱られて、かわいそうだろ |
| リッド | オレたちのほかに、同じことができるヤツはいないぜ |
| ファラ | そだね…… |
| | ファラは自分を納得させるように深く頷くと… |
| | 三つのカップを並べ、キールのものにはとかげの黒焼きを砕いて入れた |
| | それから干し肉のスープを注ぎまわす |
| リッド | キール!やっとできたぜ。食おう |
| | リッドはさかんに湯気をあげているカップを… |
| | 木の葉を傷つけないように注意しながら、キールのそばの地面に置いた |
| | キールは「ああ」と、顔をあげた |
| キール | いただきまーす |
| | ファラは自分のカップで手を温めながら、こっそりキールを盗み見る |
| | 薄い唇が、カップのふちに届きそうになる |
| ファラ | あっ、あのっ。キール、あのね、そのスープ |
| キール | ん? |
| | ずっ |
| | キールがひと口目をすする小さな音がした |
| ファラ | ……た、焚き火の灰が少し入っちゃったかもしれないの |
| ファラ | だから苦かったら、ごめんね。うわずみだけ、飲んで |
| キール | わかった |
| | キールはあっさり頷くと、片手で木の葉をさわりながら考えごとにふけり始めたようだった |
| | ときどき、思い出したようにカップを口に運んでいる |
| リッド | おい、飲んでるぜ |
| | リッドが小声でいう |
| ファラ | まずくないのかな |
| リッド | あいつ、もともと食いもんに興味ねーだろ |
| ファラ | っていうか、味、わかんないんじゃない? |
| リッド | たぶんな |
| | リッドはごくごくと自分のスープを飲みほすと、「うめえ」と笑った |
| | |
| ファラ | ねえ、なんでだまってるの |
| | 静かすぎる山の夜に耐え切れなくなって、ファラがいった |
| | 暖かいスープをお腹に入れてようやくひとごこち着いた三人は、焚き火を囲み、膝を抱えて座っていた |
| | いまにも消えそうな火を、無言のままリッドがときおり小枝で突ついては、生き長らえさせている |
| | すっかり木の葉の分類を終えてしまったらしいキールも、さっきから押し黙ったままだった |
| | いまごろ、とファラはふたたび唇を動かした |
| ファラ | いまごろ母さんたち、心配してるよね。怒ってるかな |
| リッド | でも、きっとオレとキールの父さんが医者を呼んできたはずだ。おじさん、絶対よくなってるさ |
| | リッドが静かに答える |
| キール | そんなに自信があるなら… |
| キール | やっぱりもうちょっとラシュアンにいて様子をみてたほうがよかったんじゃないか |
| ファラ | そうかもね。キリアシュトリメラ草、見つからなかったし |
| | キールに頷くファラに、リッドはキッとなる |
| リッド | なんだよ。おまえだって賛成したじゃん |
| ファラ | そうだけど |
| ファラ | でも、どうしてリッド、あんなに張り切ってたのか……わたしにもわかんなかったよ |
| | ファラはうつむいた |
| ファラ | このままうちに帰れなかったらどうしよう |
| ファラ | モンスターが出て来て食べられちゃったらどうしよう…… |
| | ラシュアン染めのワンピースの膝に涙が落ちる音が、やけに大きく聞こえる |
| | リッドは、ファラが泣くのをじっと見つめていたが、「ごめん」と低くつぶやいた |
| リッド | オレ、間に合わなかったらイヤだなと思ったんだ…… |
| キール | 間に合わない?どういう意味だ |
| | キールが訊ねる |
| | |
| リッド | おじさんが死ぬってことだよ |
| | |
| ファラ | 死ぬ!? |
| | ファラが肩をびくりと震わせる |
| ファラ | 父さん、死んじゃうの?熱出しただけなのに? |
| ファラ | イヤだよ、わたし、そんなの……いやっ! |
| リッド | 待てよ、ファラ。おじさんが絶対いま死ぬっていってるんじゃない |
| リッド | たぶん平気だよ。でも、みんな死んじゃうんだ、いつか |
| ファラ | え |
| | 涙に濡れた目が、リッドを見つめた |
| リッド | オレ、母さんのこと、あんまりくわしく聞いたことなかったんだけどさ |
| リッド | こないだ、父さんがいってたんだ。母さんは医者が間に合わなくて死んじゃったって |
| リッド | あんまり急に具合が悪くなったから間に合わなかったのか… |
| リッド | 間に合わないくらい悪かったから医者がきても助けてもらえなかったのか、わかんねーけど |
| ファラ | リッドが二歳のとき、だったんでしょ |
| | ああ、とリッドはファラに頷いた |
| リッド | オレさ、おまえの父さんまで死んじゃったらやだなって思ったのかもしれない |
| リッド | ただ、ラシュアンを出てどっかに遊びにいきたかったっていうのもあったけど |
| リッド | もし医者がどこにもいなくても、オレたちがその薬草を持って帰ればいいわけだろ |
| キール | 理屈ではな |
| | キールがもっともらしく腕を組む |
| リッド | うん…… |
| | リッドは薄く笑った。それからダークレッドの髪の毛の中に手を突っ込むと、かりかりと掻いた |
| リッド | そうなんだよな。最近オレ、父さんに弓や斧や剣の使い方、ちょっと習ってるんだけど── |
| | なにをいいだすのかと、キールは耳をそばだてた |
| リッド | オレ、けっこう狩りするの、うまいんだよ。な、ファラ |
| ファラ | うん。ウサギもらったよ |
| | ファラが、にこっとする |
| リッド | オレがこいつ、と思うと、その動物は死んじゃうわけだろ。ヘンな感じがする |
| キール | ぼくたちが生きていくためなんだからしょうがない。肉や毛皮が必要なんだから |
| キール | そういうものだろう |
| リッド | そうなんだけど。うーんと |
| | リッドは、混乱したように首を振った |
| リッド | だから、動物はそうなんだけどさ。人間は猟師のせいで死ぬわけじゃないだろ |
| ファラ | 決めるのは、王さま?じゃなくて神さまだよね |
| | うん、とリッドは頷いた |
| リッド | セイファートだとしたら、気持ちが楽になるなあ |
| キール | なにがいいたいのか、よくわからない |
| | キールは子供らしい神経質さで、きゅっと眉を寄せる |
| | |
| | そのとき、ファラが「ああっ」と声をあげた |
| ファラ | 大変!火が、消えちゃう! |
| | 燃やせるものを燃やし尽くした炎が、 すーっと冷えていくのを、リッドたちはじっと見ていた |
| | |
| ファラ | どうしよう、暗くなっちゃった |
| リッド | 寒いな…… |
| キール | ……うっ |
| | 鳴咽を洩らしはじめたのは、キールだった |
| リッド | また泣くぅ!うるさいんだよ、おまえ |
| | リッドは怒り、幼なじみの肩を小突こうと身を乗り出した |
| | じゅっ、と灰が音をたてる |
| | リッドの涙が落ちたのだった |
| キール | なんだよお。リッドだって泣いてるくせに |
| リッド | オレ?オレは泣いてなんかいねーぞっ |
| ファラ | やめてよ、ふたりともっ。ケンカしないでよぉ。うわあああ |
| | ファラが両手を振りまわしながら、ふたりの間に割り込んだ |
| ファラ | だ、だいじょぶだから。朝になったら、山を降りよ? |
| ファラ | 途中できっと、なんとか草も見つかるよ |
| | キールは「キリアシュ……」と訂正しかけたが、ファラの耳には届かない |
| | 猛烈な眠気に襲われたのだった |
| ファラ | だから、ふたりとも、泣かないで…… |
| | ファラは、リッドとキールの間にすっぽりと体をおさめると、ゆっくり目を閉じた |
| | なぜもっと早くそうしなかったのだろうと思うほど… |
| | その隙間はファラの体にぴったりなのだった |
| ファラ | (あったかい──) |
| | この世界はいま、冷たくて暗い闇にぜんぶ支配されているんだ、とファラは感じる |
| | 自分は力もないし… |
| | あまりにも小さく頼りないので、セイファート神にも見落とされてしまうかもしれない |
| | でも、両側から伝わってくる暖かな体温が、それでもいいやと思わせてくれる |
| | あっという間に眠ってしまったらしいキールの寝息が聞こえてくる |
| | リッドが首をかくんとさせたかと思うと、体をもたせかけてきた |
| | 自分を受けとめてくれるぬくもりのなかで… |
| | ファラもすぐに規則正しい呼吸を始めた |
| | |
| | んふふふふふふ……………… |
| | カタカタカタカタカタカタ…… |
| | ときおり、ナキトカゲがお互いを呼び交わす声がしていたが… |
| | 三人は夢も見ず、ひとかたまりになって眠り続けた |
| リッドのとかげ | エピローグ |
| | 濃い靄の匂いに最初に気づいたのは、リッドだった |
| | 彼は自分の顎がダークグリーンの髪に埋まっているのを認めると、そうっと体を離した |
| | あたりはようやく明るくなりはじめたばかりのようだ |
| | ゆうべはまったく聞こえなかった小鳥の囀りが、枝々を渡ってゆく |
| リッド | ん…… |
| | 彼はごしごしと目をこすると、地面を這うようにしてキールのほうへ回った |
| | 動くと体のあちこちが痛んだ |
| リッド | キール。おい、キール |
| | ファラを起こさないように、小声で友だちを呼びながら、肩を揺すってやる |
| | が、彼はまだぐっすり眠っていて、目を覚ます気配がない |
| リッド | ちぇ |
| | リッドは、所在なくあたりを見回す |
| | 焚き火の燃えさしが目に入った |
| リッド | (そうだ) |
| | 彼はキールにふたたび近寄ると、投げ出された足を覆っている服に触れそろそろと手探りする |
| | |
| キール | ……な、に……? |
| | 身じろぎしたキールは、次の瞬間、ハッと目を開けた |
| キール | わああっ!リッド、どこ触ってんだよ!?やめ…… |
| | はははっ、とリッドは笑い声をたてた |
| キール | お、おまえ、そんなことするやつだったのかっ |
| | キールは片手で服の裾を押さえると、震える指をリッドに向けた |
| リッド | そんなことってなんだよ |
| リッド | オレはおまえが野宿で寝しょんべんなんてことになってないかどうか見てやっただけだ |
| キール | ねしょん……!? |
| | キールは、ものすごい勢いでごそごそと自分の体をまさぐった |
| リッド | 安心しろよ。けさはしてないみたいだぜ。よかったな |
| キール | よくないっ!! |
| | 騒がしいやりとりに、ファラが体をよじる |
| ファラ | ……どうしたの、ふたりとも |
| キール | どうもしてないよ。寝てろよ、ファラ |
| | キールの剣幕に、ファラは体を起こし、眠そうな目をリッドに向けた |
| リッド | 寝しょんべん、してなかったんだよ |
| | リッドは、してやったりという表情で告げた |
| ファラ | ほんとっ!?やったね、よかったじゃん |
| ファラ | あんまり信じてなかったけど、やっぱり効くんだねえ、とかげって! |
| リッド | そうだなっ |
| | ファラとリッドは手をとりあって飛び上がった |
| キール | おい。とかげって? |
| | キールが固い声で訊ねる |
| | ふたりはびくりとすると、そのまま体を硬直させた |
| ファラ | え、あ……いけない。あのね……えーと…… |
| | 振り向いたファラは、くしゃくしゃになっていたワンピースの裾を直しながら… |
| | さりげなく真実を伝えた。 |
| キール | な、なんだって!?ゆうべのぼくのスープに、とかげのく、黒焼きが…… |
| | 話を聞き終わったキールはみるみる蒼ざめた |
| | おえええ、と喉が鳴ったが、むろんスープは一滴も出てこなかった |
| ファラ | でも、ダンダラワライトカゲだよ?やにょうしょうに効くんでしょ |
| キール | ………… |
| | キールは涙目でふたりを見上げた |
| リッド | ほら、これ。おまえの本に載ってたから、模写ってのをしてきてやったんだぜ |
| | リッドは、折りたたんだ紙を広げると、キールに示した |
| キール | ……これは…… |
| キール | ふざけるなっ、木くらげじゃないかっ! |
| | ぶっ、とファラが吹きだした |
| リッド | ダンダラワライトカゲだっていってんだろっ。ゆうべオレが仕留めたんだ |
| キール | どうやって特定したんだ |
| リッド | とくてい? |
| | リッドが首をかしげる |
| キール | たしかに何種類かナキトカゲが鳴いてたのは聞いたけど |
| キール | 夜尿症に効果があるのは一種類だけなんだぞ |
| キール | あの暗さでどうしてわかったのかと聞いてるんだ |
| ファラ | だって、間違うはずないよねえ |
| | ファラは、なにか嫌な予感がするのを押さえながら、リッドの顔を覗き込んだ |
| リッド | おう。だってキール、いったじゃないか。音に反応して光るって |
| リッド | だんだらに光ってたやつがそうだろ? |
| | |
| キール | ちがうっ!! |
| | キールは頭を抱えた |
| キール | あれは、同じナキトカゲ科だけど、まったく別ものなんだよ |
| キール | ダンダラワライトカゲは自光なんかしない。光るのはダンダラドクトカゲだけだっ |
| | |
| ファラ | 毒とかげ |
| | ファラはおうむ返しにいい、ぶるっと体を震わせた |
| ファラ | やだ……キールのカップに、丸ごと……一匹入れちゃった |
| リッド | おまえ、平気か?腹、痛くねえ? |
| | さすがのリッドも顔色を変えている |
| キール | いまごろ遅いよっ。ああ、気持ち悪い。うえええ |
| ファラ | キール、キール!しっかりしてっ |
| | ファラはキールの背中をさすりながらリッドにいった |
| ファラ | すぐ帰ろう、ラシュアンに。お腹痛の薬なら、うちにもあるよ |
| | 薬を採りに来てこれかよ、と思ったがリッドも反対する気はない |
| | |
| | そのときだった |
| | 風に乗って、徴かに人の声が聞こえた気がした |
| リッド・ファラ・キール | あ…… |
| | 三人は、顔を見合わせる |
| 男の声 | おーい、リッドぉ、キールーっ!返事しろー! |
| ファラ | 父さんの声っ! |
| | ファラが飛び上がる |
| ファラ | 父さーん、ファラはここだよぉ! |
| | がさがさと繁みをかきわける音が登ってくる。もう間違いなかった |
| | やがて、密集した樹の幹の間から、ノリス・エルステッドとビッツ・ハーシェルの顔が覗いた |
| | |
| リッド | と、父さん…… |
| ビッツ | リッド!心配かけやがって |
| リッド | な、なんでここがわかったんだよ |
| | リッドは、自分を強い目で見下ろしている父親から顔をそむけながら聞いた |
| ビッツ | ギズロたちが見つけたんだ、キールの部屋でな |
| ビッツ | しおりがはさまった本、印のついた地図 |
| | あ、とキールは短く声をもらす |
| キール | それで、ぼくの父さんは?怒ってましたか? |
| | だからここにいないんだ、と思いながらキールがいうと、ノリスが笑った |
| ノリス | ああ。ものすごく怒ってるから、キールを捕まえにちゃんと来てるぞ |
| ノリス | ただ、途中で足首を捻挫しちまってな。麓で休んでいる |
| キール | そう……ですか |
| | キールは、ほうっと息をついた |
| ファラ | 父さん、もう熱はいいの?なんだか顔が赤いみたい |
| | ファラが父親を見上げる。ビッツにくらべると、明らかに汗をかきすぎている |
| ノリス | もうよくなったよ。リッドの父さんが医者を呼んで来てくれたからな |
| ファラ | ほんと?ああ、よかった |
| | ノリスは微笑みながら、ファラのおかっぱ頭を撫でてやった |
| | それから、子供たちの奮闘の跡── |
| | 消えた焚き火や、汚れたままころがっている鍋やカップ |
| | ──を、ひと通り眺めわたす |
| | リッドは黙って父親を見上げた |
| ビッツ | 本当は村長、まだフラフラなんだ。なのに俺も行くといってきかなくてな |
| | ビッツはそう囁くと、肩をすくめる |
| | ひとり娘のファラが心配で、熱が下がりきっていないのに出かけてきたんだな、リッドは思った |
| ファラ | ごめんなさいっ |
| | ファラがぺこりと頭をさげた |
| ファラ | わたしたち、迷惑かけちゃった……。それなのに……、見つけられなかったの、キリアシ…… |
| ノリス | キリアシュトリメラ、か。たしかにあれはよく効く薬草だ |
| | ノリスは、ふっと笑った |
| ノリス | ファラ、いいさ。父さんは元気になったし、ファラも無事だった |
| ノリス | それに、ファラたちがしてくれたのは人間としてとても大切なことだ |
| ノリス | 人間は、死ぬまで人間らしい心を持って、家族や友だちを大切にしなくちゃいけない |
| ノリス | 父さんもそうやって、ラシュアンの村人とつきあっていきたいと思ってる |
| ファラ | ふうん |
| | ファラは、よくわからないなりに、自分たちの勝手な行動が許されたのだと感じ… |
| | 心の底からほっとした |
| ビッツ | ん? |
| | そのとき、ビッツが足元に目を落とすと、しゃがみこんだ |
| ビッツ | これ、もしかして |
| | ブーツの先で揺れていた草の葉をちぎる |
| | それをひと目見るなり |
| キール | あった! |
| | と、キールが叫んだ |
| | 葉の先端が、ハサミを入れたようにくっきりと三つに分かれている |
| キール | キリアシュトリメラ草……こんなところに生えてたのか |
| | リッドは、焚き火のあとからいくらも離れていないことを目で測ると、くやしそうにいった |
| リッド | なんで見つけられなかったのかなあ |
| | すると、ノリスがひょいと手を伸ばし、ビッツの手から葉を取り上げた |
| | そのまま口に運ぶと、むしゃむしゃと食べてしまう |
| キール | ああっ、村長さん!ダメです、それは根っこを煎じて飲むんだ |
| ノリス | なーに、気は心さ |
| | 薬草の葉を嚥下してしまうと、ノリスはキールに笑いかけた |
| キール | で、でも、根は薬でも葉や花は猛毒だったりする植物は少なくない…… |
| | 毒、と口にしたせいで、とかげを思い出したのだろう |
| | キールはふたたびうずくまってしまった |
| リッド | 父さん。キールを麓までおぶってやってくれない? |
| リッド | その……ドクトカゲの入ったスープを飲んじゃったんだ。間違って |
| キール | 間違ったんじゃないぞっ、わざとじゃないかっ |
| キール | これで死んだらぜーったい化けてでてやるからなあっ! |
| | ビッツはノリスと目を合わせ、苦笑した |
| ビッツ | 残念だが、ここらの山には強い毒を持ったとかげなんていないね |
| ビッツ | 百匹も二百匹も生で食べたっていうなら話は別だが |
| ファラ | ううん。黒焼きにしたのを一匹スープに入れたの。飲んだのは、うわずみだけよ |
| | ファラが律儀に説明する |
| リッド | なんかとかげ違いだったみたいなんだけどさ |
| リッド | おかげでけさはキール、寝しょんべんしなかったんだぜ |
| ノリス | それはすごい |
| ビッツ | じゃあ、そのすばらしいニュースを早くギズロにも聞かせてやろうじゃないか。おいで |
| | ビッツは頷きながら、大きな背中をキールに向けてやった |
| | いつの間にか、まばゆい木洩れ陽がそこここに丸い模様を描いている |
| | ウルムの山の新しい一日が始まったのだった── |
| | |
| キール | ──という事があったんだ |
| メルディ | キール、それから大丈夫だったか? |
| キール | ああ。夜尿症はそれ以来随分と改善されて… |
| メルディ | …?毒、大丈夫だったかって意味だよぅ |
| キール | あ、あぁ…そっちか。一日寝ていたら、すぐに治ったよ |
| メルディ | 治ってよかったな!毒も、ネションベンも! |
| キール | …この話は、もういいだろっ。それより薬草は集まったのか? |
| メルディ | たくさん集まったよ! |
| キール | なら、そろそろ街に帰ろう |
| メルディ | あ、キール!これ… |
| キール | ん…?そ、それは…ダンダラワライトカゲ! |
| メルディ | やっぱりこれ、そうか!?持って帰って、黒焼きにしよ! |
| キール | ぼ、ぼくにはもう必要ないぞ! |
| メルディ | 街の子どもがためよ。キール、何焦ってるか? |
| キール | べ、別に焦ってない。そういう事だと思ったよ |
| キール | さ、暗くならない内に帰るぞ |
| メルディ | はいな! |