| Name | Dialogue |
| 瑠璃の夢 | プロローグ |
| | いとしい娘へ |
| | いつもおまえを見守っているよ |
| | おまえの心が美しい瑠璃色に満たされるその日まで─── |
| | |
| | 『ミント──』 |
| | 『この日記をあなたのために 残しておくにあたって、 私は少々とまどっています』 |
| | 『ここしばらくの間に 何度も予感した危険が…』 |
| | 『恐ろしい現実となって 私とあなたの身に降りかかる のではないかという不安…』 |
| | 『それを、こんなものを書くことで、 かえって引き寄せてしまいや しないかと思っているのです』 |
| | 『むしろなにも気づいていない 顔をしてこのユークリッドで 母娘ふたり…』 |
| | 『静かに暮らしているほうが いいのかもしれません』 |
| | 『でも、どうしても 伝えなければならない いくつかのことがあります』 |
| | 『それに、いつか私が先に いなくなってしまったら…』 |
| | 『あなたはいままで決して 口に出して私に訊ねようと しなかった疑問を…』 |
| | 『一生抱えていかなくては ならないでしょう』 |
| | 『誰にも口外しなかった私の死と共に 答えは永遠に失われるのですから』 |
| | 『どこから書きはじめましょうか』 |
| | 『まず、あなたの父親、 アルザス・アドネードのことからに しましょう』 |
| | 『あなたの金髪と鳶色の瞳──、 アルザス譲りなんですよ』 |
| | 『彼の死後── そう、あなたのお父さんはもう この世にはいません──』 |
| | 『あなたを見るたびに彼の髪と 瞳の色を思い出したものです』 |
| | 『アルザスとの出会いは約二〇年前。 私がダオスを封印した あとのことでした』 |
| | 『ダオスのことは── この日記帳を開くことのできる あなたなら、もう知っていますね』 |
| | 『私が子供だったあなたに教えた あの祈りは、ダオス封印の祈祷 だったのです』 |
| | 『私はもともとユークリッド北部の 法術院で生活していましたが…』 |
| | 『ダオスを封印してからは そこに帰るわけにもいかず、 あてもなく南へと旅立ちました』 |
| | 『そして極度の緊張と疲労のため、 山の中で倒れてしまったのです』 |
| | 『衰弱した私を見つけ、 自分の家に連れ帰ってくれたのが アルザスでした』 |
| | 『彼はひとりで暮らしている 占星学者でした』 |
| | 『はじめのうちはひどくさめた目を していたけれど…』 |
| | 『一緒に暮していくうちに、 私たちは愛し合うように なったのです』 |
| | 『そしてかわいい娘が生まれ、 彼はその子にミントと 名づけました』 |
| | 『でも……そのときアルザスの体は すでに不治の病に 冒されていたのでした』 |
| | 『あなたが一歳になる前に、 看病の甲斐なく彼は亡くなり……』 |
| | 『私はあなたを連れて ふたたび法術の世界で生きていく 道を選んだのです』 |
| | 『父親が誰かわかって、 安心したかしら?』 |
| | 『でも、名前など知っても たいした意味はないのかも しれませんね』 |
| | 『あなたに話したいことは もっと深い── 人間に関することなのです』 |
| | 『また書くことにしましょう』 |
| | 『もうあまり時間がないような 気もするけれど』 |
| | 『この日記は万一のときに備えて、 私の夢の中においておく ことにします』 |
| | 『ミント──』 |
| | 『あなたがいつか 夢見の術を体得したときに、 表紙は開かれるでしょう』 |
| | |
| チェスター | しっかし、ひでぇよなぁ |
| | チェスター・バークライトは、足元に転がっている煤けた棒を蹴飛ばしながら吐き捨てた |
| チェスター | 見れば見るほど派手にやりやがって。なんていったっけ? |
| クレス | マルス・ウルドール |
| | チェスターの横を歩いていたクレス・アルベインは答えたが、すぐにつけ加えた |
| クレス | もうその話はやめよう、チェスター。僕たちはこれからのことを考えるべきだよ |
| チェスター | わかってるって。わかってるさ。けど、このありさまを見るとな |
| | チェスターは足を止め、見渡す限りの焼け野原を睨みつけた |
| | アセリア歴四三〇四年── |
| | ダオスを倒したのち、トーティス村に戻ったクレスたちを待っていたものは… |
| | ダオスの部下によって焼き払われたままの故郷の姿だった |
| | チェスターは妹のアミィ、クレスの両親たちをはじめ相当数の墓をすでに建てていたが… |
| | それは再生への一歩というにはあまりにも遠く… |
| | むしろ在り合わせの木材と石を拾って作った墓碑はわびしさを募らせているだけだ |
| | 湿った風がクレスたちの背後から吹きつけた |
| クレス | ひと雨くるかな |
| チェスター | ああ、オレの言うとおり、さっさと掘っ建て小屋を作っておいて正解だったろ? |
| クレス | そうだな |
| クレス | ミントは大丈夫かな |
| チェスター | ああ?おふくろさんの墓に行ったんだろ? |
| チェスター | すぐ近くなんだから大丈夫に決まってるじゃないか |
| チェスター | まあ、それだけミントのことが大切なんだろうけど |
| クレス | べ、別にそんなんじゃないっ。雨が降ってきたら濡れるじゃないか。それだけだよ |
| チェスター | だーかーら。子供じゃあるまいし、ちょっと濡れたぐらいじゃ死なねーよ |
| チェスター | っとにおまえってわかりやすいよな |
| | クレスはきゅっと眉根を寄せると、ひとりでずんずん歩き出す |
| | ブーツの下で、どこかの家で使われていた皿の破片がチャリッと音をたてて割れた |
| チェスター | おい、待てよ |
| | チェスターが苦笑しながら親友を追いかけて行ったあと… |
| | 雨の最初のひと雫が皿の破片に落ちた |
| | 水滴は皿の表面を滑り、付着した泥と一緒に地面に吸い込まれて消える |
| | それはトーティスの惨状を洗い流そうとしているかのように見えた |
| 瑠璃の夢 第一章 | scene1 |
| ミント | ただいま |
| | ミント・アドネードが立て付けの悪い小屋のドアを押して駆け込んできたのは… |
| | ふたりが戻ってからしばらくしてのことだった |
| チェスター | 遅かったな。あーあ、ずぶ濡れじゃないか |
| クレス | ごめんよ、ミント。迎えに行こうかと思ったんだけど |
| ミント | いいのよ。小屋はここしかないし、迷いようもないもの |
| | 髪や服からぽたぽたと雫を垂らしているミントは… |
| | クレスから清潔なタオルを受けとると微笑んだ |
| | 三人が村を再建すると聞いて、トリニクス・D・モリスンが用意してくれたもののひとつだ |
| | クレスたちは、ほんの数日前までモリスンの家にやっかいになっていたが… |
| | いつまでも村をほうっておくわけにもいかないと、ここに戻って来たのだった |
| | 廃材を集めてやっとふた部屋ある小屋を建てたところだが… |
| | それすらもモリスンが持たせてくれた必要最小限の生活道具がなければ無理だったろう |
| チェスター | 着替えてくれば? |
| ミント | ……ええ |
| | チェスターが気を利かせて言うと、ミントはクレスをちらっと見ながら頷いた |
| | 小屋は狭かったが、奥にとりあえず板で仕切られただけの部屋がこしらえてあった |
| | クレスたちはミントがそこを使うべきだと主張し、なかば強制的に彼女の荷物を入れてしまったのだった |
| クレス | 火をおこしておくよ |
| ミント | ああ、夕食の支度なら私が |
| クレス | その前に体を暖めなくちゃ。ほら、風邪をひくから早くしたほうがいいよ |
| | |
| ミント | (なんだか、私だけ悪いみたい……) |
| | もう、しばらく前から感じていることだが… |
| | クレスもチェスターも自分を大事にしすぎているような気がする |
| | とくにトーティスの村に戻ってからはろくに小屋を建てる手伝いもさせてくれなかった |
| | ケガをしてはいけないから、というのがふたりの言い分だったが… |
| | さんざん危険な目に遭いながらダオスを倒した仲間としては、素直に頷けない気分なのだ |
| ミント | (クレスさんたちにはこれから 村の再建という大変な仕事が 待っているんですもの) |
| ミント | (私もできる限りのことを しなくては) |
| | ミントはタオルをきちんとたたみ直しながら、そう自分に言い聞かせた |
| | |
| クレス | だからさ、やっぱり聖レニオス教会を中心に考えたほうがいいよ |
| クレス | なんてったってトーティスのシンボルだったんだし |
| チェスター | そうだなあ。けど、でかいから石材がすごいぜ |
| チェスター | まずは人が住めるようにしないとダメだ |
| クレス | そうか |
| | ミントの作ったささやかな夕食をとったあと… |
| | クレスとチェスターはテーブルいっぱいに広げられた白い紙の上で顔を寄せ合っていた |
| | “新しい地図”とふたりが呼んでいるところの紙には、ほとんどなにも書き込まれていない |
| | かつてふたりの家があった場所。その中間あたりにあるこの小屋 |
| | それから教会と南の森がわずかに記されているだけだった |
| クレス | そうか……なあ、ここってなにがあったんだっけ |
| | クレスが小屋の南側をひとさし指で押さえる |
| チェスター | ゴーリの親父さんのとこだろ。忘れんなよバカ |
| | ゴーリは、早くに両親を亡くしたチェスターとアミィの親代わりをしていた、雑貨屋の主人だ |
| クレス | ごめん。けどこの作業って…… |
| チェスター | 言うなよクレス。大変なのは最初からわかってる |
| クレス | そうじゃなくてさ。怒るなよ、チェスター |
| クレス | チェスターが村を元どおりにしたいって気持ちはわかるよ。でも、これって変だよ |
| チェスター | なにが |
| クレス | だって『ゴーリ』を作ったって、もう親父さんはいないんだよ |
| クレス | 襲われる前のトーティスを再現したって、もうみんな帰ってきやしないんだ |
| | 突然、チェスターがクレスをギロリと睨んだ |
| チェスター | じゃあ、おまえはどうしたいんだ? |
| クレス | いや、具体的にどうって案があるわけじゃないけど… |
| | バンッ! |
| | チェスターは両手でテーブルを叩くと眉を吊り上げる |
| | 食器を洗っていたミントは肩をビクンとさせ、そっと振り返った |
| チェスター | クレス。おまえには思い出がないのか!? |
| クレス | ……あるよ。あるに決まってるじゃないか。僕はここで生まれて育ったんだ |
| チェスター | だろう? |
| チェスター | だったらせめて家や道場や教会なんかだけでも元通りの場所につくりたいとは思わないのか? |
| チェスター | それに、考えなきゃならないのはオレたちのことより、死んでいった村人たちのことだろう |
| クレス | …… |
| | クレスが首を傾げると、チェスターはじれったそうに口を開いた |
| チェスター | ほんっとにバカだな |
| チェスター | いいか、オレたちは生きてる。その気になりゃあ世界の裏側で暮すこともできるだろう |
| チェスター | だが、この村でなんの罪もなく殺されていった村の人たちはどうだ?もうどこへも行けやしないんだぞ |
| | 幽霊、という言葉が思わずクレスの脳裏に浮かんだが、口に出すのははばかられた |
| チェスター | まさか、目に見えないものは存在しないだなんて思ってるわけじゃないだろうな |
| クレス | ……それは、アーチェのこととか? |
| チェスター | ちがう!!なんでここであいつが出てくるんだよ |
| チェスター | そりゃ、どうせあいつは、見えないところで元気にやってるだろうが |
| | チェスターは大げさにため息をつくと |
| チェスター | じゃあ、こう考えてみろよ |
| チェスター | おまえは毎日真面目に働いて生きていたにもかかわらずまきぞえを食って殺された村人だ |
| チェスター | いまはもう魂だけになってふわふわと…… |
| | と、目を宙に泳がせた |
| クレス | わ、わかった |
| | クレスは苦笑しながら何度か頷き |
| クレス | チェスターのいうとおりだ。僕は、たとえ肉体を失っていてもこの村にとどまりたいと願うだろう |
| クレス | だからチェスターはできるだけ昔のトーティスを再現したいってことなんだな |
| | と、確認した |
| チェスター | そうとも。やっと理解できたか |
| チェスター | オレだって現実はわかってるつもりさ |
| チェスター | 新しい村人を受け入れれば、昔の面影なんてなくなるぜ |
| チェスター | だからせめて思い出の場所だけは確保したいんだよ |
| クレス | だったらやっぱり教会は必要だ |
| | クレスがきっぱりと言い切る |
| チェスター | おふくろの葬儀をやったからか? |
| クレス | それもあるけどさ。覚えてないか? |
| クレス | 僕たちが人生最初の取っ組み合いをしたのはあそこの控え室だった |
| チェスター | そうそう。おまえ、あのころから弱っちくてな~ |
| クレス | チェスターこそ、目がこーんなに細くてさあ |
| | ふたりは顔を見合わせ、げらげら笑ってしまった |
| | ミントが立っているのに気付いたのはしばらくしてからのことだった |
| ミント | ……あのう |
| クレス | え? |
| ミント | 火を落とす前にお湯を沸かしたので。お茶です |
| | どうぞ、とふたつのカップがコトリと音をたてる |
| クレス | ああ、ありがとう |
| ミント | なにかお手伝いすることは? |
| | いや、と即座に首を振ったのはチェスターだった |
| チェスター | 今夜のところはないよ。先に寝てくれ |
| ミント | でも、私にもなにかさせてください |
| チェスター | そうだな……明日からはとりあえず留守番を頼みたいんだけど |
| ミント | 留守番、ですか |
| | 失望を気取られないように、ミントはさりげなく繰り返した |
| チェスター | ああ。オレとクレスは建築資材の買い出しに行こうと思ってるんだ |
| チェスター | それがすめば村に大工たちが入ってくる |
| チェスター | そしたらケガ人も出るだろうし、ミントの本領発揮さ |
| ミント | そうですね。ケガ人なんて出ないほうがいいですけど |
| | ミントは微笑んで見せ |
| ミント | おやすみなさい |
| | と告げた |
| | |
| | 小部屋に引き取ると、ミントはごく簡単にしつらえたベッドに座り、暗闇の中でしばらくそうしていた |
| ミント | (どうしてこんな気持ちに なるのかしら…) |
| | ミントはいいようのない不安に襲われている自分に驚いていた |
| | クレスとチェスターの話に入っていけない |
| | 自分はこの村の出身ではないのだから当然といえば当然なのだが、この疎外感はどうだろう |
| ミント | (私は必要と されてないのかもしれない) |
| ミント | (……いいえ、そんなことないわ。 トーティスの再建に役立てることが きっとあるはずよ) |
| | もうすぐ建設が始まると、チェスターに聞いたばかりではないか |
| | そうすればきっと賑やかで忙しい毎日になるだろう |
| ミント | (たぶん、あの旅の 刺激が強すぎたのだわ。 だから気が抜けてしまったのかも) |
| | ミントはきっとそうに違いないと自分に言い聞かせると、そっと横たわる |
| | なにか大切なことを忘れている気がしたが、間もなく眠りに落ちてしまった |
| 瑠璃の夢 第二章 | scene1 |
| | 『ミント』 |
| | 『あわててこの日記を 書きはじめましたが…』 |
| | 『なんとか今日も母娘ふたり、 無事に夜を迎えることが できました』 |
| | 『いま、こうして耳をすますと となりの部屋であなたが静かな 寝息をたてているのが聞こえます』 |
| | 『窓の外は降るような星空です── 明るい月たちのまわり以外は』 |
| | 『ねえミント、夜空の星には 本当に人の未来や運命が わかっていると思う?』 |
| | 『なにを唐突にと、 笑わないでくださいね』 |
| | 『アルザスはそれを占星学者である 自身の一生のテーマとし…』 |
| | 『半分だけの結論を持って、 天に召されました』 |
| | 『半分とはどういうことなのか、 気になるでしょう』 |
| | 『アルザスはいつも こう言っていました』 |
| | 『「人間は生まれ落ちた瞬間に、 自分をとりまいていた 星の位置によって…」』 |
| | 『「一生の運命を 決められてしまうんだ」』 |
| | 『「それは宿命と言い換えたほうが 正しいかもしれない」』 |
| | 『「星は決して間違わないし、 誰もそこから逃れることは できないと言われているんだ」』 |
| | 『「でもね、メリル。 わたしは思うんだ。 人間は無力じゃない」』 |
| | 『「たとえ悲しみや苦しみが 襲ってくると 星が語っていても」』 |
| | 『「もしかしたら強い意志と力で それを捻じ曲げることが できるんじゃないだろうか」と』 |
| | 『彼は、アカデミーで占星学を 学んでいたときから とても優秀な学生だったそうです』 |
| | 『助手として残れば 教授の椅子も約束してやろう、と アカデミーから言われたそうよ』 |
| | 『それを断ったとき、 アカデミーの仲間うちでは…』 |
| | 『「アルザス・アドネードは 金を積まれてどこかの要人の 専属占星学者になったらしい」』 |
| | 『という噂がまことしやかに 広まったんですって』 |
| | 『もちろんそれはでたらめで、 彼はその噂に傷つき、 ひとり深い山中で暮らし始めたの』 |
| | 『そこで私たちは 知り合ったわけだけれど』 |
| | 『おかしいのは、アルザスは…』 |
| | 『「きみを山の中で見つけるなんて、 星は教えてくれていなかった」と 驚いていたこと』 |
| | 『この世に起きるすべての事象は 星によって語られているはずなのに なぜだろうと…』 |
| | 『あとになって何度もふたりで 話し合いました』 |
| | 『けっきょく、ダオス封印という とてつもなく強いできごとが…』 |
| | 『運命を変えてしまったのだろう という結論に達したのですが』 |
| | 『──もちろん、本当のところは わかりません』 |
| | 『あのとき、アルザスは こうつぶやきました』 |
| | 『「だったら自分で変えられる運命も あるかもしれないな」と』 |
| | 『当時は具体的な意味が わかりませんでしたが…』 |
| | 『すでに彼は自分の死期を 悟っていたのでしょう』 |
| | 『星がはっきりとそれを 示していたはずですから』 |
| | 『アルザスは、 あなたが一歳になる前に 亡くなったと書きましたね?』 |
| | 『そうです…… 彼は自分の運命を 変えられませんでした』 |
| | 『だから結論は半分、なのです』 |
| | 『でも、代わりにミント、 あなたという命が 生まれていました』 |
| | 『アルザスはいつも 私たち母娘の運命を 気遣ってくれていました』 |
| | 『彼が最期に私に語ったことを お話します』 |
| | 『どうか気持ちを強く持ってね』 |
| | 『アルザスは苦しい息の下で 言いました』 |
| | 『「言いにくいことだが──」』 |
| | 『「きみとミントをやがて 想像もできないような 恐怖が襲うだろう」』 |
| | 『「命も落としかねないような」』 |
| | 『「いまからちょうど一七年後の 星の巡りがそう語っている」』 |
| | 『「だが、残りの時間を使って なんとか運命を変えてほしい」』 |
| | 『「私がきみに出会うことを 予知できなかったような 思いがけない幸福によって」』 |
| | 『「生き延びてほしいのだ」』 |
| | 『「ミントがきみから強い意志と力を 受け継いでいれば、 不可能ではないだろう──」』 |
| | 『想像もできないような恐怖……』 |
| | 『私にはすぐにそれが ダオスのことだと わかりました』 |
| | 『けれど、私にはどうすることも できず、封印の祈祷をするのが 精一杯でした』 |
| | 『そして、今年がその 一七年目なのです』 |
| | 『正直に言いましょう』 |
| | 『私は、たぶんアルザスが言っていた “恐怖”によって、命を落とすのでは ないかと予見しています』 |
| | 『なんとかあなただけでも 生き延びてください』 |
| | 『私は、あなたがこれを 読んでくれることを祈っています』 |
| | 『読むということは、私の亡きあとも あなたは無事に生きていると いうことですから』 |
| | 『こんなに幸福なことはありません。 信じています──』 |
| | |
| クレス | ミッドガルズの商人が、どうしてトーティスにいるんです? |
| チェスター | おまえも仲間か |
| | チェスターが少年に向って顎をしゃくると、カイムは弾かれたように首を振った |
| カイム | ちっ、ちがいますっ。僕の父はいまミッドガルズで小さな雑貨店をやっているんですけど |
| カイム | 昔、ユークリッドにいたときにクレスさんのお父さんの道場に通っていたんだそうです |
| カイム | それで……今度のことを人づてに聞いて…… |
| | 少年が目を伏せると、横にいたローデルがふんと鼻を鳴らした |
| カイム | 父は僕にトーティスの村に行くようにと言いました |
| カイム | 村がどういう状態になっているかはわからないけど、なにか僕にできることをお手伝いするようにと |
| ローデル | ハッ、そりゃ殊勝なこった |
| | ローデルが笑うのを、ミントが遮る |
| ミント | そうなの、クレスさん。私、お母さんのお墓でカイムさんに会ってね |
| ミント | 小屋まで帰ってきたんです。そうしたらこの人が中にいて…… |
| ローデル | 鍵はかかっていなかったぞ |
| ローデル | それに、泥棒が入ったところでこんなボロ屋、とられるものはなにもあるまい? |
| チェスター | いちいち嫌味なやつだな |
| チェスター | ミッドガルズから来た悪徳商人なんだろ?あんた、自分でそう言ったよな |
| チェスター | ってことは、だいたい想像がつくぜ |
| ローデル | ほう |
| チェスター | シンソールで買い占めしたの、あんただろ |
| | ローデルはにやりと笑った |
| クレス | そうか。おかげで僕たち、ひどい目に遭ったんだからな |
| クレス | いったいどういうことなのか、説明してほしい |
| ローデル | もちろんだ。とにかく中へ入らないかね |
| チェスター | 待てよっ! |
| | チェスターが追いかける |
| | クレスもあとに続こうとしたとき誰かに袖をひっぱられた |
| カイム | クレスさん |
| クレス | ああ、カイム君、だよね。なんだかバタバタしちゃって申し訳ない |
| クレス | わざわざミッドガルズから来てもらうなんて……ええと、きみのお父さんが |
| カイム | ええ。ミゲール先生の教え子でした。でも、そんな話はあとです |
| カイム | あのローデルのことは噂で知っています |
| カイム | ミッドガルズでも有名なやり手の建築商人で…… |
| カイム | 大工をたくさん使って、かなり無理なことするらしいです |
| クレス | そうか。教えてくれてありがとう。さあ、僕たちも中へ入ろう |
| | |
| チェスター | はっきり言えよ、ローデル |
| チェスター | 石材と木材を買い占めて、オレたちに何倍もの値段で売りつけようとしてるんだろっ! |
| ローデル | 売りつけるだと!?こいつはいい! |
| | ローデルは突然大声で笑い出した |
| ローデル | そんなケチなことをどうして俺がせにゃならんのだ? |
| ローデル | そっちの小僧に聞いてみるがいい。ミッドガルズのローデルといえば、少しは名が通っていると思うがな |
| クレス | そうらしいよ |
| クレス | 僕も最初、買い占めと聞いたときにはチェスターと同じことを思ったんだ |
| クレス | でも、この人はたくさんの大工や職人を使ってるらしい |
| ローデル | そのとおり。おまえら、トーティスの生き残りらしいな |
| ローデル | 村を再建だと?バカを言っちゃいけない |
| ローデル | おまえらだけでそんなことができるわけがない |
| ローデル | 再建はこの俺がする。そしてこの先村を仕切っていくのも、俺だ |
| チェスター | なんだって!? |
| ローデル | これを見ろ |
| | ローデルはテーブルの上に懐から出した紙を広げた |
| クレス | あっ |
| | クレスたちにはひと目でそれがトーティスの地図であることがわかった |
| | 自分で作ったものとはくらべものにならない、精密で専門的なものに見える |
| | 驚いたことに、すでに地図にはどこにどんな建物を建てるのかが、ペンで細かく記されていた |
| クレス | (やっぱりこの男は 村を自分のものにしようと しているんだろうか) |
| ローデル | 俺がこの村の悲劇を聞いたのは、ちょうどミッドガルズで大きな仕事をやり終えたときだった |
| ローデル | 前まえから、ユークリッドにも拠点がほしいと思っていたんだ |
| ローデル | そこで腕利きの職人を集めてやってきたというわけさ |
| ローデル | シンソールでおまえたちの噂を聞いてきた職人がいて… |
| ローデル | それで早馬で先回りさせてもらったというわけだ |
| ローデル | 先住者なら、ひと言挨拶をしておくのが礼儀かと思ってな |
| クレス | 職人の人たちは?一緒じゃないのか |
| ローデル | 大部分は都の宿屋さ。とりあえず五〇人連れて来ている |
| チェスター | そんなにっ |
| チェスター | そりゃ資材を買い占めでもしないと、みんなに仕事が回らないか…… |
| チェスター | って、おい、冗談じゃないぞ。オレたちのトーティスをよそ者に勝手にいじくり回されてたまるかよ |
| ローデル | そんなことを言う権利はないはずだ。国王でもあるまいし、おまえたちの土地ではないのだろう? |
| チェスター | そりゃそうだけど |
| クレス | でもローデルさん。僕たちもシンソールで少しですが建築用の資材を買ったんです |
| クレス | 馬と人手を借りて……一軒分とちょっとしかお金がなかったけど |
| クレス | たぶん明日にはこちらに来るはずです |
| ローデル | 一軒!?一軒では村とはいえないだろう |
| | ローデルは鋭い目をわざとらしく細めて嫌味たっぷりに言った |
| ローデル | なあ、悪いことは言わない |
| ローデル | おまえたちの家を建てるならここに建てるといい。それくらいの自由はやろう |
| ローデル | だが、あとはこちらに協力するんだ |
| | やなこった、とチェスターが吐き捨てた |
| チェスター | ちょっと聞くけどな、おっさん。家を何軒建てる気だ |
| ローデル | 最終的には一〇〇ほど |
| チェスター | ふん。じゃあ、そこに誰が住む? |
| ローデル | 拠点がほしいと言ったろ。俺の仕事を手伝う職人を優先的に住まわせる |
| チェスター | 大工村かよ |
| チェスター | でもって、無理な仕事の取り方をしてもともとユークリッドで大工をしてた連中は日干しになるんだな |
| ローデル | ほーう。なかなか世の中の仕組みを理解しているとみえる |
| | クレスはふたりのやりとりを聞きながら、ローデルが持ってきた地図を見ていたが |
| | 「あれっ」と声をあげる |
| チェスター | なんだよクレス |
| クレス | いや、ここ……ほら、教会がない |
| チェスター | ああ、本当だ |
| | 地図には住まいのほか、村人の生活に必要と思われる店や、宿屋などが描き込まれていたが… |
| | トーティスのシンボルだった教会はなかった |
| ローデル | 教会だと?ここか? |
| ローデル | その場所なら宿屋を建てようと思っている |
| クレス | それはダメです |
| クレス | 聖レニオス教会は、トーティスの人たちの大切な心のよりどころだったんだから…… |
| ローデル | トーティスは死んだんだぞ! |
| | 突然、ローデルが大声をあげたので、クレスとチェスターはびくっと肩を震わせた |
| ローデル | 教会のことなんか知るか。神がいるならなぜこんなひどいことになったんだ!? |
| ローデル | とにかく。俺はおまえたちに許可を取ったり、相談にのってもらうためにここに来たんじゃない |
| ローデル | 挨拶しに来てやっただけでもありがたいと思えよ |
| | 地図をたたむと、ローデルは |
| ローデル | 邪魔したな |
| | と言い捨てて立ち上がった |
| チェスター | ……どこに泊まってるんだ?これから都までもどるのか |
| ローデル | まさか。途中で先乗りの職人たちが、野宿してるんでな |
| | |
| | ローデルが闇の中に消えていってしまうとクレスは親友を表に連れ出した |
| | |
| クレス | なあ、どうする? |
| チェスター | どうするったって |
| | ふたりは夜気の中で途方に暮れてしまう |
| クレス | 僕たち以外の誰かがトーティスを再建するなんて、考えもしなかったなあ |
| チェスター | ああ、確かに。しかし、もしオレたちの手で村を元どおりにできたとしても…… |
| チェスター | 誰が住むのかはわからないわけだよな |
| クレス | そうだけど、あの男のやり方は…… |
| チェスター | まあ様子を見るしかないだろうよ。明日にはオレたちの資材が届く。とりあえずはそっちが先だ |
| チェスター | オレたちはともかく、ミントにはちゃんとした家が必要だろ |
| チェスター | 彼女を安心させるためにもそのほうがいい |
| | チェスターはクレスの肩をポンと叩いた |
| | |
| | ──その夜、ミントは不思議な夢を見た |
| ミント | (どこかしら、ここは……) |
| | 初めてクレスと時空を超えたときの草原に似ている気もしたが、はっきりと周囲が見えない |
| | といって、夜ではなさそうだ |
| | 空には昼の明るさがないかわりに、冷たい暗さもなかった |
| | |
| ミント | (太陽も、月も星も出ていないわ) |
| | ミントは空を見上げて首をかしげる |
| | こんな色は見たことがない、よく知っている青空よりもずっと濃い、澄みきった青だった |
| | しばらく空を見ているうちに、ミントは、自分が浮かんでいるような気分になってきた |
| | 草原だったはずの地面はもうなく、そこも濃い青で満たされているのを眼下に見ることができたからだった |
| | しかし、恐怖はない |
| ミント | (なにかしら、この気持ち…… なにかをしなければ いけない気がする……) |
| ミント | (誰かを呼ばなくちゃ いけない気がする……!) |
| | ミントは焦り、そこにないはずの地面を蹴った |
| | すると、くるりと体が一回転する |
| | 窮屈な卵の中で動く、誕生間近の魚になったような感じがした |
| | しかし次の瞬間、狭まっていた空間が一気に無限に広がるのがわかった |
| | |
| | 目が覚める |
| ミント | (なんだったのかしら。いまの夢) |
| | |
| チェスター | よう、早いな |
| ミント | あ……おはようございます |
| チェスター | 小僧は? |
| ミント | まだ寝ているわ |
| チェスター | そうか |
| | チェスターは小屋のまわりの土地をならしているのだと言い、それから怪訝そうに訊ねた |
| チェスター | どうかしたか?クレスなら水を汲みに行ってるけど |
| ミント | いいえ、なんでもありません |
| | 夢を見たと言うのは簡単だが、説明するにはあまりにも漠然としすぎていた |
| ミント | あのう、チェスターさん。私、考えたのですけれど |
| チェスター | なに? |
| ミント | モリスンさんのところへ行ってきてもいいでしょうか |
| | 言ってしまってから、ミントは自分に驚いていた |
| | いまのいままでモリスンのことなど、まったく考えていなかったからだ |
| チェスター | そうだな。オレたちも昨日のおっさんのことを早く報告しなくちゃと思ってるんだけど |
| チェスター | こっちを放っていくわけにもいかないからな |
| ミント | ええ。ですから私が行ってきます。これからどうすればいいか、相談を…… |
| ミント | もしかしたらこちらに来てくださるかもしれませんし |
| チェスター | 助かるよ。クレスには、もう話したんだろ? |
| ミント | いいえ |
| チェスター | いいえって、ミント。そういうことはまずクレスに話してだな…… |
| | チェスターがとまどったとき、当のクレスが戻ってきた |
| クレス | おーい、水は外においておくからな。きょうから人が増えるし、多めに汲んでおいたよ |
| | ミントとチェスターの視線が一瞬からまった |
| クレス | ああ、ミント起きたのか。おはよう |
| | 朝陽に透ける金髪を掻きあげながら、クレスはにっこりする |
| ミント | おはようございます |
| | ミントは礼儀正しく会釈すると、そそくさと出かける準備をし |
| ミント | それでは行ってまいります |
| | と杖を片手にふたたび頭を下げた |
| クレス | あ?なに?行ってきますって、ちょっとミント! |
| | クレスが追いかけようとするのを、チェスターがぐいと引き戻す |
| クレス | なっ!?なんだよ。離せよチェスター |
| チェスター | 大丈夫だ。ミントはモリスンさんの家に行ったんだ |
| クレス | なんだって? |
| チェスター | ほんとに、なにも聞いてないらしいな |
| クレス | ……うん |
| チェスター | 立ち入ったこと聞きたくないんだけどさ。ミントとなんかあったのか? |
| クレス | へっ? |
| チェスター | なにマヌケな声出してんだよ。トーティスに戻ってきてから、ずっと変だろ |
| クレス | たしかに……あんまり喋らないなとは思ってたけど、ミントはもともとおとなしいし…… |
| クレス | お母さんの墓の近くにいるせいでいろいろ考えてるんだろうと……つまり、悲しんだり、懐かしんだり |
| クレス | 違うのかな |
| チェスター | なにもなければ、なんでおまえの顔を見るなり逃げるように行っちまうんだ? |
| クレス | うーん |
| | クレスが唸ったとき、小部屋からカイムが出てきた |
| | 寝癖のついた髪がぼさぼさしており、彼をいかにも少年という感じに見せている |
| カイム | おはようございますクレスさん、チェスターさん。寝坊しちゃってすみません |
| クレス | いや、まだ早いよ。眠れたかい |
| | ええ、と言いながら、少年はさりげなく小屋の中を見回した |
| チェスター | ミントなら留守だ。だから朝飯はおまえにまかせた。作れるか? |
| カイム | あ……ええ、はいっ、うちは両親が店で忙しいので、僕がしょっちゅうやるんです |
| カイム | 仕事をもらえてうれしいです。おいしいの作りますから |
| チェスター | いや、ロクな材料がねーんだ。期待はしてない |
| | チェスターが土ならしの続きをしに出ていってしまうと、カイムはクレスに聞いてきた |
| カイム | どこに行ったんですか、ミントさんは |
| クレス | 知り合いのところだよ |
| クレス | ほら、昨日思わぬ横槍が入っちゃったから、たぶんそのことを相談しにいったんだと思うけど |
| カイム | そうですか。ねえクレスさん── |
| カイム | たしかにローデルはミッドガルズでもいろいろ噂のあるやつですけど、村ができていくのは楽しみですね |
| クレス | え!? |
| カイム | よそ者の僕がこんなこと言ったら、気を悪くするかもしれないけど…… |
| カイム | このままよりは、きっとずっといいです |
| カイム | だから、ローデルとうまくいくといいですよね。なんて、無理かな |
| | カイムは笑った |
| | クレスも思わずつられて笑ってしまいながら、確かにそうだなと思う |
| クレス | (あの無惨な思い出を 晒しているよりは…) |
| クレス | (早く新しい村を 作ってしまったほうがいいよな) |
| クレス | (僕たちの希望を通すように 頑張るのは相当大変そうだけど) |
| | ふと、ミントの横顔が浮かんだ |
| クレス | (帰ってきたら話をしてみよう。 様子が変だなんて、 チェスターの思い過ごしだよな) |
| 瑠璃の夢 第三章 | scene1 |
| | 『ミント』 |
| | 『アルザスが息を引き取る直前に 言い残した言葉については、 すでにお話しましたね』 |
| | 『私とミントを襲う恐怖のことです。 でも、心配しないでください』 |
| | 『あなたを安心させるためにも、 今夜はもう少しくわしく 書こうと思います』 |
| | 『星の巡りによると…』 |
| | 『私は何者かにとらわれ、 非業の死をとげかねない らしいのですが…』 |
| | 『ミントの運命は そうとは限りません』 |
| | 『私に死がもたらされれば…』 |
| | 『引き代えに天はあなたに 素晴らしい贈り物をすると 囁いているそうです』 |
| | 『贈り物って、なんでしょうね』 |
| | 『私たちふたりの生活に、 ついぞ縁のなかった 宝石や金貨ではないでしょう』 |
| | 『美しい法衣や杖でもありませんね、 きっと』 |
| | 『もしかしたら愛する人を 見つけたのではありませんか?』 |
| | 『だとしたら、いまごろは きっといろいろなことに 戸惑ったりもしているでしょう』 |
| | 『アルザスと共に暮らし はじめたころ、私はよく不思議な 感覚にとらわれていました』 |
| | 『彼が素っ気なかったせいも ありますが…』 |
| | 『近くにいればいるほど、 なぜか自分の存在が ぼやけてしまい…』 |
| | 『心許なくさみしい感じが したのです』 |
| | 『私は星のこともよくわからないし、 法術師でありながらなんの役にも 立っていない気がして』 |
| | 『そのくせごくたまに 彼が町まで買い出しに行って 山の中の家でひとりにされると』 |
| | 『強い孤独にさいなまれました』 |
| | 『けっきょく、 どんなにアルザスの 口数が少なくても…』 |
| | 『私にとっては彼と一緒にいるのが いちばんの幸せなのだなあと 考えるようになったのです』 |
| | 『ほんの数年、短い間でしたが、 一緒に生きることができて 私は幸せだったと思います』 |
| | 『ミントがどんな男性と 愛し合うようになるのか いまの私にはわかりませんが…』 |
| | 『その人がどこで生まれ、 どこに住んで何をしていようと…』 |
| | 『とにかくできる限り 一緒にいてあげなさい──』 |
| | 『天がくれた贈り物が、 あなたの真の居場所だといいなと 私は思うのです』 |
| | |
| | ミントがトーティスの村に戻ると、様子は一変していた |
| | そこここで、家の建築がはじまっていた |
| | まだ土台の段階ではあったが… |
| | 数十人もの男たちが汗を垂らしながら石を積んだり重たそうな鋸で木材を切ったりしている |
| | ミントは早足で小屋まで戻った |
| | |
| カイム | あっ!? |
| | 台所にいたカイムが気配に振り返り、ぱっと顔を輝かす |
| カイム | ミントさんっ。お帰りなさい |
| ミント | ……なにをしているの? |
| | 這いつくばっている少年に、ミントは怪訝そうに訊ねた |
| カイム | 家具とか食器とか、全部運び出すんです。ここに新しい家を建てるので…… |
| | カイムはぐずぐずと立ち上がると、言いにくそうに続けた |
| カイム | ほんとは、もうとっくにこの小屋はなかったはずなんですけど…… |
| カイム | シンソールからの資材と大工の人たちの到着が遅れたので…… |
| ミント | そうだったの。そうですよね、もう取り壊されているはずだったんだわ |
| ミント | クレスさんたちは? |
| カイム | チェスターさんと一緒に南の森です |
| ミント | 南の森?まさか猪狩りじゃないでしょうね |
| カイム | なんですか猪って。この間もそんなこと── |
| ミント | ああ、あのふたり、子供のころから、しょっちゅうあそこで猪狩りをしていたらしいの |
| | へえ、とカイムは一瞬目を耀かせかけたが |
| カイム | きょうは違いますよ |
| | と笑った |
| ミント | とにかく行ってみるわね |
| カイム | 待って、僕も |
| | |
| クレス | ミントーっ! |
| | なだらかな草地に足を投げ出して座っていたクレスは… |
| | ミントの姿を見るなり両手を高く挙げた |
| チェスター | よう。無事に戻ったな |
| チェスター | ミント、こっちがオレたちの家を作ってくれる大工のレイニーだ |
| | レイニーと呼ばれた小柄な中年男は |
| レイニー | よろしくお嬢さん |
| | と微笑んだ |
| レイニー | こっちは見習いのリフだ |
| | リフはカイムと同い年くらいだろうか |
| | ひどく痩せており、ひょろりとした首を折って無言で会釈した |
| クレス | で、どうだった?モリスンさんは |
| ミント | ええ。お金のことは気にするなって…… |
| ミント | いまやっている仕事が一段落したら様子を見にきてくれるそうです |
| ミント | モリスンさん……自分たちの信念を曲げるなって |
| ミント | ダオスを倒したときのことを思い出せって |
| チェスター | 大げさだなあ。ローデルの野郎はただのおっさんだぜ |
| チェスター | ダオスと一緒にするにはもったいねーよ |
| | チェスターが吐き捨てるように言う |
| ミント | もしかして私が発ったときより、状況は悪くなっているのかしら |
| レイニー | 悪いもなんも、お嬢さん! |
| レイニー | シンソールでクレスさんが押さえた大工を、ローデルは出発直前に金で釣ったんだ |
| レイニー | 一緒に来るはずだった四、五人はいま、村で土台を組んでるぜ |
| ミント | あなた方は誘われなかったんですか? |
| レイニー | 誘われたさ、もちろん。なんてったって俺は腕はいいんでね |
| レイニー | しかし、職人ってのは金で転んでるうちは二流なのさ |
| レイニー | 俺は最初に雇われたところで、約束どおり最高の仕事をするのが信条なんだ |
| ミント | まあ。よかったですね、クレスさん。いい方で |
| チェスター | よくねえよミント。あっちは五、六〇人はいるんだぜ。資材もたっぷり |
| チェスター | あっという間に、ローデルのユークリッドの拠点である大工村が、ここに完成しちまう |
| チェスター | そんなのトーティスとは言えないだろ |
| ミント | ……ごめんなさい |
| クレス | 気にするなよミント。こいつはここのところ、ずっとカリカリしてるんだ |
| ミント | あ、いけない |
| | ミントはパチンと手を合わせ |
| ミント | 大切なことを忘れていました。あのね、クレスさん |
| ミント | モリスンさんからの伝言なんですけど… |
| ミント | 以前トーティスに住んでいた人たちの名前を教えてほしいんですって |
| クレス | 名前?全員の? |
| ミント | ええ、そうだと思います。わかりますか |
| クレス | うん……わかると思うけど、どうしてまた |
| ミント | さあ……理由は言ってませんでした |
| クレス | ふうん、そうか。とにかくそれは早急にやるよ |
| ミント | お願いしますね |
| | ミントは曖昧に微笑みながら、私ったらバカみたいだわ、と思う |
| ミント | (ちゃんとモリスンさんに 聞いてくればよかった) |
| ミント | (これじゃ子供のお使いみたい) |
| クレス | 僕も忘れてたぞ |
| ミント | え? |
| クレス | 家のことなんだけど。レイニーの相談に乗ってやってくれないか |
| ミント | 私がですか |
| クレス | やっぱりミントが使いやすいように作ったほうがあとあといいだろ |
| ミント | …… |
| クレス | あ、いや。別に深い意味はないんだ |
| クレス | ただ……しばらくは家が一軒しかないわけだし…… |
| ミント | わかりました |
| | ミントはトクトクと音をたて始めた心臓を意識しながら答えた |
| ミント | (そうよね……) |
| ミント | (ふたりきりではないけれど、 クレスさんときちんとした家で、 一緒に暮らすんだわ) |
| ミント | (旅ではなく、 戦いのためでもない……) |
| ミント | (これからはそういう、 ごくあたりまえの生活を するのよね) |
| | 体が熱くなってくることに、ミントは心地よさを抱いていた |
| | それから、問題が山積しているのに幸せを感じている自分を、ちょっぴり恥じた |
| | |
| | クレスたちがローデルと衝突したのは、その日の夕方のことだった |
| | 小屋はすっかり取り壊され、みんな空腹を押さえきれない時刻になった |
| | 廃材で火を起こして夕食の支度をすることになり… |
| | カイムとリフは暗くならないうちにと川まで新鮮な水を汲みに行ったのだった |
| チェスター | おい、あいつら遅くないか? |
| クレス | そういえば…… |
| レイニー | どれ、見てくるよ |
| レイニー | どうせ水遊びでもしてるんだろ。ふたりともまだ子供みたいなもんだし |
| | |
| レイニー | え…… |
| | |
| | レイニーはほんの数秒、暗闇を透かして眉を細めていたが、突然ダッと走り出した |
| レイニー | リフっ!?どうしたんだ、お前っ! |
| | クレスたちもあわててレイニーの走っていった方向を見つめた |
| | ひょろひょろした影が二、三度揺らめいたと思うと、ドサリと倒れる音がした |
| レイニー | リフっ、リフっ!?おい、しっかりしろ |
| | レイニーに抱き起こされて、見習いの少年は呻いた |
| | 薄闇の中でも、あちこちケガをして、ひどく殴られたような顔をしているのがはっきりわかった |
| リフ | ううっ……力……カイムがまだ、川……に |
| チェスター | なんだと!?くっそう。あの親父、ふざけやがって!!!!! |
| クレス | ダメだ、チェスター!落ち着けっ |
| チェスター | うるせぇよ! |
| | チェスターはひとまとめにしてあった荷物の中から弓と矢筒を引っつかむと川に向かって駆け出した |
| クレス | ミント!リフを頼んだぞ |
| | クレスは叫び、あとを追った |
| ミント | レイニーさんっ、火が消えかかっています!薪を足して、お湯を沸かしてください |
| レイニー | けど、リフが…… |
| ミント | それは私にまかせて!ああ、水は瓶に残っている分だけでいいですから、早く! |
| | てきぱきと指示を出しながら、ミントは地面に仰向けに寝かされた少年の顔を覗き込んだ |
| ミント | ヒール! |
| | 背後でパチパチと薪がはぜた。チャプンという水音 |
| レイニー | ……お嬢さん? |
| | 荒れた大地を踏みしめて近づく足音にミントは振り返る |
| | 心配そうなレイニーの顔が肩越しにリフを覗き込む |
| ミント | もう大丈夫ですよ |
| レイニー | え |
| ミント | さあ、火のそばに寝かせてあげてください |
| レイニー | これは……!?あんた、いったいなにをしたんだ。どうやって治した? |
| ミント | 私の母は……昔、法術院にいたんです。それで少し習ったことが |
| レイニー | 法術師、なのか |
| | レイニーはリフを抱きしめると、頭を下げた |
| | |
| クレス | いたぞっ!カイムっ、僕だ。しっかりしろっ |
| | 岸辺に上半身を横たえたカイムは、腹部から下を水になぶられながら必死で這い上がろうとしていた |
| クレス | ほら、つかまって |
| カイム | ク、クレスさん……。すみません、僕…… |
| チェスター | おいっ、クレス。来るぞ。大勢だ……二、三〇? |
| | 矢筒から抜いた矢を番えようとする親友の手を、クレスは素早く押さえつけた |
| チェスター | なにするんだっ |
| クレス | ダメだったら。もし当たったら大変なことになるぞ |
| 大工 | おーい、まだ誰かいるのか。早くテントに戻らないと、また食いっぱぐれるぞ |
| | どっと笑い声があがる。かなりの人数だ |
| | なんだ?という視線をチェスターに向けられ |
| クレス | さあ。大工たちみたいだけど…… |
| | |
| | ズザッ! |
| | |
| | すぐそばを駆け抜ける足音に、チェスターは目にもとまらぬ速さで弓を構えた |
| チェスター | 止まれっ!止まらないとズブリだからなっ |
| | 足音がぴたりとやむ |
| | 数十人はいるらしい男たちもシンと静まり返った |
| チェスター | オレの弓は狙いをはずさない。クレスの剣の腕は超一流だぞ |
| クレス | おい、チェスター |
| | クレスが一歩進み出ようとしたとき |
| | |
| ??? | おい、明りを貸せ |
| | 松明が大きく揺れ、聞き覚えのある声が響いた |
| クレス | ローデル!? |
| ローデル | ふん。クレスにチェスターか。なんの騒ぎだ? |
| | ローデルは大股で近づいてきながら、ふたりにそう訊ねた |
| 瑠璃の夢 第四章 | scene1 |
| | 『ミント』 |
| | 『きょうはダオスについて 書いてみたいと思います』 |
| | 『ですがダオスが誰で、 どんな人物であるのかについて…』 |
| | 『ここでくわしく触れるのは やめておきます』 |
| | 『世界の脅威であったということ くらいはあなたも 知っているでしょうし…』 |
| | 『彼のやったことについて 書きたいわけではないからです』 |
| | 『かつてダオスを封印したとき、 私はもちろんひとりきりでは ありませんでした』 |
| | 『ミゲールとマリア、 そしてトリニクスという 仲間がいたのです』 |
| | 『私たちは、大変な苦労の末、 ユークリッド南部の地下墓地に ダオスを封印しましたが…』 |
| | 『仲間にも一度も 言ったことがないことがあります』 |
| | 『それは、ダオスの行ないにも なにか理由が あったのではないかという疑問』 |
| | 『つまり、モンスターを操り、 世界を支配し、 人々を恐怖に陥れるには…』 |
| | 『それだけの事情が あったのかもしれないと 思ったのです』 |
| | 『あるいは──本当にただの 狂人だったのかもしれませんが』 |
| | 『戦っているときは それでも夢中でしたが…』 |
| | 『封印後にその思いは 強くなりました』 |
| | 『私が法術師だからかもしれません』 |
| | 『甘いことをと言われるでしょうが、 私にもっとカがあって彼の心を 癒すことができたなら…』 |
| | 『状況は違っていたかもしれません』 |
| | 『私が言いたいのは──ミント』 |
| | 『もしいまあなたにとって敵だと 思える人がいても、優しくして あげてほしいということです』 |
| | 『人にはそれぞれ 物語と歴史があります。 どんな平凡な人にも』 |
| | 『それを忘れずに、 決して一面的に見ないでください』 |
| | 『目を凝らし、 細心の注意を払わなければ、 真実は見えないものです』 |
| | 『あなたが自身の法術を 深めて行くためにも、 覚えていてくださいね』 |
| | |
| チェスター | よーし!そっちにロープの端を引っかけるんだ!あわてるなよっ |
| | クレスたちはみんなで崩れ落ちた教会の石塔をまっすぐに建て直そうとしているところだった |
| | ミントは圧倒され、声をかけそびれて少し離れた場所から彼らを見つめた |
| クレス | おはよう。なんでそんなところに立ってるんだ? |
| ミント | あ、いえ。カイムさんとリフさん、元気になったなと思って…… |
| カイム | おかげさまで |
| | カイムが頭を下げると、リフもうっすら笑ってミントを見た |
| チェスター | よーし。梃子と鎖でなんとかなるだろ。朝飯の前に片づくといいんだけど |
| | チェスターが意味ありげに言ったので彼女はハッとなった |
| ミント | ごめんなさい!すぐ支度をしますね |
| | 朝食はスープとパン粥、モリスンが持たせてくれた少しばかりの干肉だけだった |
| 大工1 | うまいや。ローデルのテントの飯とは大違いだ |
| 大工2 | ほんとほんと。お世辞じゃないよ、ミントさん |
| | 大工たちは口々にミントの味つけを誉めた |
| ミント | 明日になったらきっと材料がたくさんくるでしょうから、分けてもらいましょうね |
| | ローデルがシンソールで料理女の手配をすると言っていたのを思い出してそう言うと |
| チェスター | さて、それだよ |
| | とチェスターが難しい顔になる |
| チェスター | 明日になったらあいつらが来る。それまでになんとか教会のカッコをつけないと |
| | けっきょく石塔は重過ぎて動かなかったのだった |
| レイニー | チェスターさん。話では聖レニオス教会はあとで建て直すんだよな |
| チェスター | もちろん |
| チェスター | とにかくあそこは教会の敷地で、宿屋を造るところじゃないってことをあのおっさんにわからせりゃいいんだ |
| レイニー | ふーむ。どうせ塔を乗せようにも、屋根も壁も粉々だしな…… |
| レイニー | じゃ、やっぱり少し壊すか |
| クレス | (なるほど。塔の足元を壊して、 軽くするわけだな) |
| | クレスは、それも仕方ないかと思いながら、隣りのチェスターに視線を当てた |
| | キッと唇を結び、なにごとか考えている様子だ |
| クレス | ははーん |
| | クレスが笑いを含んだ声をあげると、チェスターはハッと我に返る |
| チェスター | な、なんだよっ。変な声出しやがって |
| クレス | いま、思ってたろ |
| チェスター | え |
| クレス | アーチェのこ……と……! |
| | 思いっきり口を塞がれて、クレスはくくく、と息を漏らした |
| クレス | は、離せよ。図星だろ?いいじゃないか、別に思ったってさ |
| クレス | 僕だってちらっと考えないわけじゃなかった |
| クレス | アーチェがいれば魔法で塔を起こすことくらい、それこそ朝飯前なのにって |
| チェスター | うるさい。あいつの魔法は破壊専門だ |
| クレス | く、苦しいったら。あははは、チェスター、やめろってはははは |
| | 呆れたレイニーがひき剥がすまで、ふたりは叫び合っていた |
| | |
| | ローデルが村に到着したのは、昨日と同じような太陽が照りつけだしてからのことだった |
| ローデル | なんだこれはっ |
| 大工 | 俺が来たときにはもう、こうなってたんです、親方 |
| 大工 | どかそうにも祟りがあるっていわれると怖くて…… |
| ローデル | 祟りだと? |
| ローデル | チェスター!クレス!どこだ!? |
| チェスター | ──呼んだか? |
| | 塔の向こう側から現われたのはチェスター以下一〇人の男たちだった |
| チェスター | 待ってたぜ、親方 |
| ローデル | これはなんの真似だ |
| チェスター | さあ |
| | チェスターはにやにやしながらとぼけてみせた |
| チェスター | オレたちも驚いてるんだ。聖レニオスの日の奇跡ってやつかな |
| チェスター | 昨日の朝起きてみたらこうなってたんだ |
| チェスター | 村人たちの魂がこの教会を必要としてるってメッセージかもしれないなあ |
| ローデル | はっ、なーにが奇跡だ |
| | おい、とローデルはチェスターとクレスを交互に睨みつけた |
| ローデル | この石についてるロープと鎖の跡……それから、聖レニオスは斧も使うとみえる |
| クレス | …… |
| | 鋭い目をまともに向けられ、クレスは思わず視線をそらしそうになったが、持ちこたえる |
| ローデル | 足元の新しい割り口……こりゃあ斧だろ? |
| ローデル | しかも俺の目に狂いがなければ、この現場で使ってるやつと、刃の幅が同じときている |
| チェスター | なんのことだか |
| | チェスターがせせら笑うと、ローデルの顔はみるみる朱に染まった |
| ローデル | 騙したな!聖レニオスの誕生祭だと? |
| ローデル | ふざけやがって、大事な仕事を一日潰しやがった! |
| | ローデルはチェスターに跳びかかると、胸ぐらを掴んだ |
| ローデル | おかげで大工たちがミッドガルズに戻るのが一日遅れた! |
| ローデル | これがどういうことだかわかるか!? |
| チェスター | 知らねーよ |
| | ペッと男の顔に唾を吐いたチェスターは、次の瞬間、数メートル吹っ飛んでいた |
| クレス | チェスター!大丈夫かっ? |
| クレス | ローデルさん。確かに、塔を起こしたのは僕たちです |
| クレス | 昨日の夜までかかりました。重過ぎたので斧も使いました |
| クレス | でも、こうでもしなきゃ、この教会の敷地に宿屋が建てられてしまう! |
| クレス | 前にも言ったけど、この教会はトーティスの人たちにとっての心のよりどころだったんです |
| クレス | 確かに村は全滅して死んだかもしれません |
| クレス | でも僕にだって思い出はある。チェスターだって…… |
| ローデル | …… |
| クレス | わかってほしいんです。トーティスはまだ僕らの中に生きてるって |
| ローデル | そんな甘い考えが通用するとでも思うのか |
| クレス | 宿屋なら、もともとこの東南にありました。同じ場所に建てればいい |
| ローデル | いよいよもって話にならん。これまでだな |
| | ローデルは大工たちを集めると、なにごとか指示を与えはじめた |
| カイム | クレスさん。僕たちが昨日やったことは、ムダだったんでしょうか |
| カイム | あいつら、塔を撤去するつもりですよ |
| クレス | 仕方ないさ。僕らの気持ちを示せただけでも良しとしないと |
| | |
| | 一か月が過ぎた |
| | あの石塔の事件以来、親方は完全にクレスたちを無視し続けており… |
| | おたがい勝手に仕事を進めているという状態だった |
| | よほど大切な事柄に限って、唯一の架け橋であるミントを通じて伝えられた |
| | が、クレスたちが驚いたことに、ローデルは石塔を撤去しなかった |
| | そんなことに貴重な労力を使うのはバカバカしいとばかりに、放置してあるのだ |
| | 宿屋は、クレスの提案のためかどうかはわからなかったが… |
| | ゴーリの店の東側にあった以前の宿屋の跡地に建てられた |
| | チェスターもクレスもローデルの真意をはかりかねていたが… |
| | 日を重ねるにつれ、あの不格好な石塔が新生トーティスのとりあえずのシンボルのように思えてきていた |
| | わずかずつだが、村らしい形をとり始めたトーティスには… |
| | 噂を聞きつけた行商人が立ち寄るようになった |
| | |
| | ある日、ユークリッドの都へ行く途中だという行商の男が、ミントあての手紙を持ってきた |
| ミント | まあ、モリスンさんからだわ |
| | そこには、なかなかトーティスに行けなくて申し訳ないという詫びと… |
| | ミントたちへの気遣いが、モリスンらしい簡潔さで綴られていた |
| ミント | 『……それから、この間頼んだ 村人のリストを急いで 届けてほしい』 |
| ミント | 『ところでミント、 夢見のほうはどうだ?』 |
| ミント | 『夢覗きの布が役に立っていると いいのだが』……モリスンさんたら |
| | ミントは苦笑した |
| | 瑠璃色の布は寝具として使わせてもらっていたが、夢見が順調かどうかはわからない |
| | ときおり瑠璃色の夢を見、革表紙の本はいつもそこにあるようになったが… |
| | 相変わらず触れることができないままで目が覚めるのだった |
| | |
| ミント | クレスさん、クレスさん |
| | ミントは手紙をしまうと、家の裏庭で作業をしているクレスのもとへ走った |
| クレス | どうしたんだい |
| | 窓枠と格闘していたクレスは、汗だくだった |
| ミント | あのね、モリスンさんから手紙が来たの |
| ミント | 私ったらひと月も放っておいて……頼まれたもの…… |
| クレス | なんだっけ。ああ、トーティスに住んでいた人たちの名前? |
| クレス | 忙しくて、それどころじゃなかったもんなあ |
| ミント | 急いで欲しいって。今夜からできるかしら |
| クレス | ああ、やるよ |
| | クレスが頷くと、ミントは安心したように戻って行った |
| クレス | なあチェスター |
| チェスター | やだ |
| | クレスの背後で石の面取りをしていたチェスターは即座に言い放つ |
| チェスター | やなこった。オレは手伝わない |
| クレス | なんだよお。モリスンさん急いでるらしいじゃないか |
| チェスター | バカだな。おまえ、オレが心配してるの忘れたのか? |
| チェスター | いいチャンスじゃないか。ミントとふたりでたまにはゆっくり話をしろよ |
| チェスター | 必要なのは台所の設計の話だけじゃないだろ |
| クレス | でも…… |
| チェスター | いいかクレス。考えてもみろよ |
| チェスター | オレたちには故郷だが、ミントにとっちゃこんな村、なつかしくもなんともないんだ |
| チェスター | もっと優しくしてしっかりつかまえとかないと… |
| チェスター | 新生トーティスの完成とともに、どこかへ行っちまうかもしれない |
| クレス | ミントが……どこかへ?彼女がいなくなるなんて考えられないよ |
| チェスター | そうだ。素直で大変よろしい |
| チェスター | 同じ時代、同じ村 |
| チェスター | 毎日一緒にいられて、おまえらほんとに恵まれてるんだってこと、忘れないでくれよな |
| クレス | チェスター |
| クレス | (やっぱりアーチェがいなくて つらいんだな) |
| | 親友が背中で言った言葉に… |
| | クレスはあらためて、自分たちが経験したあの旅は紛れもない現実だったのだと思った |
| | |
| | その晩、クレスとミントは新しい自分たちの新しい家のテーブルで向かい合っていた |
| クレス | うーんと |
| クレス | まず、ゴーリの親父さんだろ、仕立て屋のニルのとこは、奥さんと子供が……何人いたっけな |
| クレス | あとは金物を扱ってたのが…… |
| ミント | クレスさん |
| | ミントはペンを持った手でクレスを遮った |
| | 彼女はクレスが思い出した人物を紙に書きとめていく係を引き受けていた |
| ミント | そうやってバラバラ思い出すと時間がかかるでしょう |
| ミント | こうしたら?地図を見て端から埋めていくの |
| クレス | そうだね。確かにそのほうが早い |
| | |
| | クレスは目を閉じ、村の門を思い浮かべた |
| | |
| クレス | (ここを潜ると、最初に大きな木が あるんだよな──) |
| クレス | (そこを過ぎると 家並みがはじまるんだ) |
| | クレスは目を閉じたまま鮮やかに甦る村の光景を眺め… |
| | そこに生活する気のいい知り合いたちの名を次つぎ口に出していった |
| | 突然、クレスの脳裏に、賑やかだったころのトーティスが丸ごと現われた |
| | 溢れる光や、笑いさざめく女たちの服、道場から響く威勢のいいかけ声 |
| | マリアの作る暖かい夕食の匂いテーブルに飾られたオレンジと黄色の花── |
| | アミィが焼いてきたパイの焦げ── |
| | 自分でも気がつかないうちに、クレスは泣いていた |
| ミント | さん……クレスさん? |
| | |
| | クレスはハッと我に返った |
| | 彼は真っ赤に充血した目で、心配そうにこちらを見ているミントを見つめ返した |
| クレス | もう……二度と帰ってこない。みんな、なくなってしまったんだ……大切だったのに |
| ミント | クレスさん…… |
| | ミントはそっと手を伸ばすと、クレスの濡れた頬に触れる |
| | クレスは微笑むと、その手を掴んだ |
| クレス | ありがとう、ミント。でも、大丈夫だよ。僕に法術は必要ない |
| ミント | そう? |
| | きみがいれば、とクレスは口の中でつぶやいた |
| ミント | 続けられるかしら |
| クレス | もちろん |
| | クレスはもう一度、さっきの門から入り直してみることにした |
| | 今度は冷静に村を眺めることができた |
| 瑠璃の夢 第五章 | scene1 |
| | 『ミント』 |
| | 『急いで書きます。 いつにも増した危険を感じます。 これが最後になるかもしれません』 |
| | 『私たちはおそらく、 ダオスの封印を解く鍵として 扱われるでしょう』 |
| | 『誰よりも私たちに愛されていたと、 これからも愛されていくのだと 自信を持ってね』 |
| | 『そして、あなたのそばにいる人を 愛していってください』 |
| | 『私が今も、 そして死んだのちも アルザスと共にあるように』 |
| | 『これから私は最後の時間を使って、 この日記帳を夢見の術で封じます』 |
| | 『いつかあなたが これを読んでくれることを 祈りつつ──』 |
| | 『追伸:ずっと以前この術のことを 話したら、アルザスは瑠璃色に 大変興味を持っていました』 |
| | 『瑠璃というのはあなたが 今いる場所の色のことです。 わかりますね?』 |
| | 『あなたのお父さんは 空の色を連想したようでした』 |
| | 『ここに、あなたあての手紙を はさんでおきます』 |
| | |
| | 短い夜が明けようとしていた |
| ローデル | うう……っ |
| | ローデルのうめき声に、ミントは、ハッと目覚めた。 |
| ミント | (……夢?) |
| | 瑠璃色に輝くあの場所にいたような気がした |
| ミント | (そうだわ。 お母さんの日記を読んで……) |
| ミント | (いえ、読まないうちに 目が覚めた?) |
| | ミントはぼんやりしている頭で必死に考えようとしたが… |
| | ふたたびローデルが声をあげたので、今度ははっきりとケガ人のことを思い出した |
| ミント | おはようございます、ローデルさん。起きられますか? |
| ローデル | ……ああ |
| | ローデルは、ミントの助けを借りて、ベッドの上に起き上がった |
| ローデル | 驚いたな、生きてるなんて──。法術のおかげか? |
| ミント | ええ、多少は。充分でなくて申し訳ないんですけど |
| | とたん、頭の中に響いた言葉があった |
| | |
| ミント | (アルザス・アドネード) |
| | |
| ミント | !? |
| ローデル | どうかした、のか |
| ミント | いいえ |
| | ミントは不自然なほどきっぱりと否定した |
| ローデル | 俺のために疲れさせてしまったんだな……少し休んでくれ |
| | ローデルの声に力はなかったが、思いやりが感じられた |
| ミント | ありがとうございます。でも大丈夫です |
| | そのとき、ドアがノックされた |
| リフ | 医者を連れてきたけど |
| | 顔を覗かせたのはリフだった |
| | |
| 医者 | 骨なんか砕けちゃいませんよ |
| | ローデルを診た医者は、信じられないといった表情で両手のひらを上向けた |
| 医者 | しかし、ここに来る途中、石塔が崩れた現場をリフくんに教えられて見てきたんですが…… |
| 医者 | よく無事でしたねえ。しばらく静養さえすれば、心配ないですよ |
| | 部屋に集まっていた誰もが昨日のローデルを見知っているだけに… |
| | 驚異的に回復しているのは法術のおかげだとわかったが… |
| | それを医者に話そうとする者はいなかった |
| | 医者が帰ってしまうと、入れ替わりにチェスターがなだれ込んできた |
| | そこにいたクレスとレイニーが驚いて脇によける |
| チェスター | ローデル!いや、ローデルさん |
| | ガバッと床にひれ伏したチェスターの髪がはねているのを見て、クレスは彼が今まで眠っていたことを知った |
| | うなされていて、熟睡できなかったためだろう |
| チェスター | どうしてもあんたに謝らないと、オレ…… |
| ローデル | ……チェスター? |
| | ローデルは目だけでチェスターを見下ろした |
| チェスター | 聖レニオスの日だなんてウソついて、オレが無理に塔を起こしたりしなけりゃ…… |
| | 切れ長の瞳から涙がこぼれ落ちる。肩が震えていた |
| チェスター | 立ってなきゃ倒れるわけないもんなっ!? |
| チェスター | オレのせいだよ。許してくれ! |
| ローデル | …… |
| チェスター | 昨夜、よく眠れなかった |
| チェスター | もしあんたが死んじまったらどうしようって、そんな夢ばっかり見てた |
| ローデル | チェスター |
| チェスター | こんなひどいことして、オレなんかにトーティスを再建できるわけがない |
| ローデル | チェスター、聞いてくれ |
| | ローデルはじっと目を閉じていたが、やがて唇を開いた |
| ローデル | 俺は……誰も恨んでなんかないぞ。今度のことは、聖レニオスの怒りに触れたと思っている |
| ローデル | 俺は神など信じてはいないが、村を守るものの存在と言い換えれば、理解できるさ |
| ローデル | あのとき、塔の横なんかに立つつもりはなかった。でも引き寄せられた── |
| | そうだった、とクレスは思い出した |
| | ローデルのよろけ方は不自然なくらいだった |
| | これまでたくさんの精霊たちと接してきたクレスには… |
| | ローデルの説もあながち間違いではない気がした |
| | |
| ローデル | だから言うわけではないがな、チェスター。少し協力し合わないか |
| ローデル | 私利私欲のためでなく、トーティスのために、だ |
| ローデル | クレスもどうだ? |
| クレス | 僕は……かまわないけど。大工ばかりの村になるのはちょっと |
| ローデル | もうその案はダメさ。逃亡者続出の現場に住もうなんて大工は、そうはいない |
| ローデル | 俺は、少々強引にやりすぎたようだ |
| ローデル | 信念を曲げるわけにはいかないが、おまえたちにも悪いことをしたと思っているよ |
| ローデル | ──だが、ここはいいところだ。村ができあがったあかつきには… |
| ローデル | ミッドガルズからの移民も、少しは受け入れてやって欲しい |
| | ありがとう、とチェスターは囁いた。いまのローデルなら信じられそうだ、と彼は思った |
| | |
| チェスター | で、かんじんの話だがな |
| | チェスターはトリスタンをキッと睨みつける。さっきまで泣いていたとは思えない |
| | クレス、ミントと四人で囲む、朝食のテーブルだった |
| トリスタン | 相変わらず目つきが悪いのぉ。こわいこわいっ |
| チェスター | とぼけんじゃねーよ |
| チェスター | モリスンさんがなにをしにミッドガルズに行ったのか、あんたが知らないわけないだろ |
| トリスタン | 知らん知らん |
| | 老人は椅子からストンと滑り降りるとリストの入った布袋を首から下げた |
| トリスタン | では、またな |
| クレス | またな、ってトリスタン師匠!? |
| トリスタン | 信じる者は救われる |
| クレス | え? |
| トリスタン | かもしれん、ということじゃ。おんしも頑張んなさいよ |
| | ポンポン、とクレスの胸を叩いて、老人は出て行った |
| | |
| モリスン | ぶえっくしよい! |
| | モリスンは、派手なくしゃみをひとつした |
| 宿屋の主人 | 風邪かい? |
| | 宿屋の食堂で、主人が訊ねる |
| モリスン | いや、そうじゃないんだが |
| 宿屋の主人 | でもここへ来てからあんた、毎日だよ |
| モリスン | たしかに |
| 宿屋の主人 | 朝飯、昼飯、晩の飯。誰かが飯どきに集まって、噂してるんじゃないのかな |
| モリスン | はは、まさか |
| | モリスンは否定したが、ありそうなことだと密かに思う |
| モリスン | (クレスたちだな) |
| 宿屋の主人 | で、商売はうまくいってるのかい? |
| | 主人はモリスンを毛色の変わった商人だと思っているらしかった |
| モリスン | まあまあだよ。もうしばらく滞在するかもしれないが |
| 宿屋の主人 | そいつはいいね |
| | 主人はパンのおかわりを持ってきた |
| | |
| | 一〇日ほどが過ぎると、ローデルの傷も少しずつ癒えてきた |
| | ひとりでベッドに起き上がり、食事をとるくらいのことはできるようになっていた |
| ローデル | 問題なく進んでいるか |
| | ミントが部屋を訪れるたびに、ローデルは質問した |
| ミント | レイニーさんがちゃんとやってくださってますよ |
| ローデル | ちょっと見に行きたいんだが……壁の普請のことで、言っておかないといけないことが |
| ミント | いけません |
| ミント | レイニーさんはきょうも夕方報告に来てくれますから、そのときにしてくださいね |
| ミント | 寝ていないとダメですよ |
| | ミントが許可しないとわかると、親方は仰向けに寝たままで大げさなため息をつく |
| ローデル | はああっ。ミント、家というのはなあ、大工にとっては子供と同じなんだぞ |
| ローデル | きちんと成長を見ていないと |
| ミント | (子供……やっぱり会いたいんだわ) |
| ミント | ローデルさん。頑張っていればきっといいことがありますよ |
| ローデル | いいこと?はっ、なんだね。そんなものがあるなら聞きたいもんだ |
| | ミントはくるりと振り返ると、「秘密です」と答えた |
| | それから枕カバーを替えようと、ベッドに近づいた |
| | |
| ミント | (アルザス) |
| | |
| | その瞬間、なんの前触れもなく頭の中に浮かぶ |
| | が、すでにミントはそれが父親の名だということを知っていた |
| | あれ以来、母親の日記の続きを読む機会は訪れていなかった |
| | ミントが何気なくローデルを見下ろしたときだった |
| ミント | (あ、この感じ……) |
| | 以前にも同じようなことがあった気がした |
| | いや、確かにあった |
| ミント | (ベッドの脇で誰かを見ていた…… こうやって見下ろしていたり、 それから、そう…) |
| ミント | (ベッドのシーツをつかんで) |
| | ローデルが、枕を取りやすいように頭を浮かせた |
| | ミントは枕を手前にそっと引きながら考えた |
| ミント | (つかんで?) |
| | どういうことだろう |
| | |
| ミント | (あのとき、誰か、 ペンを走らせていた……) |
| ミント | (そう、私はそれを 見ていたんだわ……) |
| ミント | (男の人だった…… 鳶色の髪と、瞳……もしかして) |
| | |
| | 強い視線を感じ、ミントはハッと現実にひき戻された |
| ローデル | 首が折れそうだよ |
| ミント | あ、ああっ、ごめんなさい。すぐ替えますから |
| | 頭を浮かせっぱなしのローデルは |
| ローデル | これもリハビリかな |
| | とだけ言って、歯を見せた |
| | |
| | 久しぶりの故郷だった |
| | 都の西側にある、小さな船着き場から陸にあがったカイムは… |
| | 足元の地面をブーツでトントンと叩いてみた |
| | 父親に言われて生まれて初めてユークリッド大陸へ行くことになったときは… |
| | もっと違う大地が待っているような気がしたものだが、こうしてみると変わりなどない |
| | 世界はどこも同じようなものなのかもしれない、と彼は感じた |
| | カイムはレイニーが用意した地図を広げて確認してみる |
| | 地図に記されたローデルの家は、クラウドットという町のはずれにあった |
| | はずれといってもそこだけ緩やかな高台になっており、町を見下すことのできる一等地だ |
| | |
| カイム | へえ |
| | 門の前に立って、カイムは驚いてしまった |
| | あちらにもこちらにも、色とりどりのバラが咲き乱れていた |
| ??? | なにかご用かしら |
| カイム | ひっ |
| | 突然、赤いバラの繁みの陰から声をかけられ、カイムは飛び上がった |
| カイム | (聞かれたかな?) |
| カイム | あ、あのう。こちらはロ、ローデルさんのお宅ですよね |
| ??? | ええ。そうです |
| | 繁みのむこうから姿を現わした女性は咲き誇るバラよりはうんと清楚なイメージだが、かなりの美人だった |
| | 長い髪を美しく結い上げている |
| ??? | あなたは? |
| カイム | カイムといいます。……あのう、驚かないで聞いてほしいんですけど…… |
| | カイムは急にしどろもどろになった |
| | ローデルのことをどう伝えるべきか、なにも考えていなかったのである |
| ??? | なにかあったのね、ユークリッドで |
| | ローデルの妻は、ぎこちない沈黙からカイムが運んできた知らせの性格を悟ったようだった |
| ??? | そう……それでケガを |
| カイム | ご家族の方に来てもらったほうがいいだろうってことになったんです。僕、たまたまこの近くの出身なもので |
| ??? | ありがとう、カイムさん |
| カイム | いえ |
| エリン | 私はエリンよ。とにかくうちにお入りになって |
| | |
| カイム | (うっわあ。すごいうちだな) |
| | 通された応接間の家具や調度は、カイムが見ても相当な高級品であるとわかる |
| エリン | さっそくですけど、ひどいって、どれくらいのケガなのかしら |
| カイム | いや、僕は直接会ってないんです |
| | カイムは出がけにクレスから聞いた説明を、なるべく忠実にエリンに伝えた |
| エリン | まあ、足の骨が…… |
| カイム | でも、もう治っているかもしれません。あちらには法術師がいるので |
| エリン | 法術ですって? |
| | エリンの目が驚きに見開かれた |
| | そのとき、廊下で足音がした |
| 男の子 | ただいま! |
| 少女 | あれっ、お客さまなの |
| | ドアを開けて駆け込んできたのは、一〇歳くらいの男の子と、その姉らしき少女だった |
| シリカ | こんにちは。シリカです。こっちは弟のジェール |
| ジェール | よろしく |
| | ふたりは深々と会釈した |
| カイム | 僕はカイム……! |
| | カイムは、顔を上げたシリカをまともに見たとたん |
| カイム | (かっ、かわいいっ) |
| | 大きな瞳も、波打つ巻き毛も、なにひとつローデルには似ていない。ふたりとも母親似なのだった |
| ジェール | お母さん。ちゃんと並んでたらカードもらえたよ |
| | ジェールはポケットから数字が書かれたカードを取り出すと、エリンに手渡した |
| エリン | ありがとう。でももうこれは必要なくなったわ |
| エリン | すぐにみんなでユークリッドヘ発ちます |
| シリカ | ええっ!? |
| ジェール | なんでっ |
| | 子供たちは驚いて叫んだ |
| ジェール | せっかくカードをもらったのに……オークションはあしたじゃないか! |
| | ジェールがぷうっと頬を膨らませ、カイムを睨んだ |
| ジェール | このお兄ちゃんのせいなんだね? |
| エリン | いいえ、ちがうのよ。お父さんがケガをしたんですって |
| シリカ | えっ |
| | シリカの顔が泣きそうに歪む |
| シリカ | ほんとですか、カイムさん |
| カイム | ああ……でもきっと大丈夫だよ |
| | カイムは曖昧に少女をなぐさめ、それからエリンに向き直った |
| カイム | いまからすぐ行くんですか?あしたのオークションっていうのは? |
| エリン | ああ、このこと |
| | ローデルの妻は白いカードをカイムに示して苦笑した |
| エリン | クラウドットではふた月に一度、オークションが開かれるんです |
| エリン | すごい骨董品なんかはめったに出ませんけれど、とても人気があるの |
| エリン | だから入札したい人には前もってこのカードが配られるんです |
| エリン | 今回はとても欲しいものがあったものだから、子供たちに並んでもらったんですが |
| ジェール | ねえ、行かないの? |
| エリン | ええ、ジェール。そんなこと言ってる場合ではなくなったの |
| エリン | シリカ、階上へ行って支度をしていらっしゃい |
| シリカ | わかったわ。あなたも一緒に行ってくださるの? |
| カイム | もちろん! |
| | カイムはとっさに快諾していた |
| | |
| | エリンたちと一緒に船着き場に到着したカイムは… |
| | 思いがけない人物に後ろから肩を叩かれた |
| ??? | きみたち。ユークリッドまで行くのなら同じ船にしないか── |
| カイム | え……あっ、あなたは!? |
| モリスン | きみ!? |
| カイム | モリスンさんっ |
| | 驚いたな、とモリスンは唸り、目の前に停泊している小ぶりの漁船を親指でさした |
| モリスン | いや、ユークリッドに行く客が五人揃わないと船は出せないっていうんだが |
| カイム | 僕たちはトーティスヘ行くんです |
| モリスン | そりゃ好都合 |
| エリン | あのう。もしかして、トリニクス・D・モリスン? |
| | カイムを押しのけるようにして、エリンが前に出る |
| モリスン | そうだが…… |
| | モリスンがカイムに説明を求める視線を送ったとき… |
| | 停泊中の小船の甲板に男が姿を現わした |
| | 船長らしい |
| 船長 | おーい。どうなったね? |
| モリスン | 揃ったよ。出航してくれ! |
| | モリスンは海風に逆らって叫んだ |
| モリスン | 話は船に乗ってからにしよう。どうせうんざりするほど時間はあるんだ |
| | カイムは、なぜローデルの妻がモリスンを知っているのだろうと不思議に思った |
| 瑠璃の夢 | エピローグ |
| | 数か月が過ぎた |
| | |
| | 美しくできあがったどの家からも、賑やかで楽しげな声が聞こえてくる |
| | ユークリッド大陸を南下する旅人はみな、おぞましい悲劇を乗り越え、再生したこの村を通りたがった |
| | 村の中央には立派な教会まで建てられていた |
| | 宿屋には商人たちが多く泊まるので、自然と市がたつ |
| | 物資は豊かで、人々の顔には希望が溢れているのだった |
| | このまま発展してゆけば、村ではなく町と呼ばれるのも時間の問題のように思えた |
| トリスタン | それじゃ、おんしらみんな元気でな |
| | クレスたちの家の前で、トリスタン師匠はみんなに向かってひょいと片手をあげた |
| | 誰もこの老人の本当の家を知らなかった |
| | が、師匠がこの村に戻ってすぐ、家に帰ってしまったモリスンのところへ行くらしい |
| | やはりあそこがいちばん落ち着くのだろう |
| | 老人が行ってしまうと、チェスターがため息をつく |
| チェスター | あーあ |
| クレス | なんだよ。さみしいのか |
| チェスター | バーカ。これでまた居心地がより悪くなると思ってさ |
| | すでにレイニーをはじめとする大工たちは村を去っている |
| | ローデルたちミッドガルズ組も、もうここにはいない |
| | もっとも、ローデルは村を拡張するために必ずまた来ると言い残していったのだが |
| | ただひとりこの地で頑張っているのがカイムだが── |
| | 彼はいまや宿屋の主人の片腕として、重宝がられていた── |
| | 住み込みなので、けっきょく家にはクレス、ミント、チェスターの三人だけだ |
| チェスター | なあ、裏庭に小屋建ててもいいだろ |
| クレス | またその話か。いいかげんに…… |
| チェスター | だって、いっつも当てつけられてるんだぜ、オレ。かわいそうだろうが |
| | 当てつけてるだなんて、とミントが赤くなりながら文句を言った |
| チェスター | それにしても、あの爺さんには感謝だなあ |
| | チェスターが、感慨深そうに腕組みをする |
| | クレスとミントが作ったあのリストを使って… |
| | トリスタンは歩けるだけの町や村を回り… |
| | 亡くなったトーティスの村人に緑のある者を根気よく集めたのだった |
| | ほとんどが親戚や友人だったが… |
| | 老人の移住の勧めにのった人々は、たいてい一族を引き連れて越してきたのである |
| | もしかしたらカイムの両親もこちらで雑貨屋を出すかもしれないと聞かされたところだった |
| 村の婦人 | こんにちは、アルベインさん。今夜、聖レニオス教会で集会があるそうですよ |
| 村の婦人 | このあいだ新しい村の名前を決めるって話が出ていたでしょう? |
| 村の婦人 | たったいま聞いたのだけど、最有力候補は『ミゲール』よ |
| 村の婦人 | あなたのお父さまの名前なんですってね |
| チェスター | 親父さんの名前が村の名前になるのか。すげーじゃん |
| クレス | ……なんか落ちつかないな。まだ決まったわけじゃないけど |
| ミント | それじゃ、道場も早く建てなければいけませんね |
| | ミントは裏庭を振り返りながら言った |
| ミント | 私、ちょっと母のところへ行ってきます |
| | |
| ミント | お母さん |
| | メリルの墓の前に座り、ミントは話しかける |
| | 村の活気も、ここまでは届かない。心地いい風が静かに吹いていた |
| ミント | きのう、市へ行ってね。ほら見て |
| | 彼女は持っていた紙包みからなにかを取り出すと、墓石にそっと近づけた |
| ミント | ね?お母さんのと似ているでしょ? |
| | それは革表紙のついた、真新しい日記帳だった |
| ミント | 私もなにか書き残しておこうと思うの |
| | ミントは近くの大木の根元に座り、幹にもたれかかると、日記帳をまん中から開いた |
| | 真っ白な紙の上に、ペンを使うように指を滑らせてみる |
| ミント | (クレスさんと出会った 地下牢のことから 書くべきかしら……) |
| ミント | (それとも、ここでの生活を?) |
| | ミントはあれこれと思いを巡らせた |
| ミント | いつかこれを夢の中に封印することができたら… |
| ミント | ずっと先の未来の子供にも読んでもらえる…… |
| | そこまで言って、くすっと笑ってしまう |
| ミント | その前にまず新しい家族をつくらなきゃね |
| | ミントはいちばん前のページを開けると… |
| | いまも自分の帰りを待っているであろう彼の名前を指で書いてみる |
| | それが決して消えてしまわないように… |
| | 家に戻ったらペンでしっかりとなぞっておかなくちゃ、とミントは思った |
| | それが本当に最初の一ページになることを、彼女ははっきりと感じていた |