NameDialogue
瑠璃の夢プロローグ
いとしい娘へ
いつもおまえを見守っているよ
おまえの心が美しい瑠璃色に満たされるその日まで───
『ミント──』
『この日記をあなたのために 残しておくにあたって、 私は少々とまどっています』
『ここしばらくの間に 何度も予感した危険が…』
『恐ろしい現実となって 私とあなたの身に降りかかる のではないかという不安…』
『それを、こんなものを書くことで、 かえって引き寄せてしまいや しないかと思っているのです』
『むしろなにも気づいていない 顔をしてこのユークリッドで 母娘ふたり…』
『静かに暮らしているほうが いいのかもしれません』
『でも、どうしても 伝えなければならない いくつかのことがあります』
『それに、いつか私が先に いなくなってしまったら…』
『あなたはいままで決して 口に出して私に訊ねようと しなかった疑問を…』
『一生抱えていかなくては ならないでしょう』
『誰にも口外しなかった私の死と共に 答えは永遠に失われるのですから』
『どこから書きはじめましょうか』
『まず、あなたの父親、 アルザス・アドネードのことからに しましょう』
『あなたの金髪と鳶色の瞳──、 アルザス譲りなんですよ』
『彼の死後── そう、あなたのお父さんはもう この世にはいません──』
『あなたを見るたびに彼の髪と 瞳の色を思い出したものです』
『アルザスとの出会いは約二〇年前。 私がダオスを封印した あとのことでした』
『ダオスのことは── この日記帳を開くことのできる あなたなら、もう知っていますね』
『私が子供だったあなたに教えた あの祈りは、ダオス封印の祈祷 だったのです』
『私はもともとユークリッド北部の 法術院で生活していましたが…』
『ダオスを封印してからは そこに帰るわけにもいかず、 あてもなく南へと旅立ちました』
『そして極度の緊張と疲労のため、 山の中で倒れてしまったのです』
『衰弱した私を見つけ、 自分の家に連れ帰ってくれたのが アルザスでした』
『彼はひとりで暮らしている 占星学者でした』
『はじめのうちはひどくさめた目を していたけれど…』
『一緒に暮していくうちに、 私たちは愛し合うように なったのです』
『そしてかわいい娘が生まれ、 彼はその子にミントと 名づけました』
『でも……そのときアルザスの体は すでに不治の病に 冒されていたのでした』
『あなたが一歳になる前に、 看病の甲斐なく彼は亡くなり……』
『私はあなたを連れて ふたたび法術の世界で生きていく 道を選んだのです』
『父親が誰かわかって、 安心したかしら?』
『でも、名前など知っても たいした意味はないのかも しれませんね』
『あなたに話したいことは もっと深い── 人間に関することなのです』
『また書くことにしましょう』
『もうあまり時間がないような 気もするけれど』
『この日記は万一のときに備えて、 私の夢の中においておく ことにします』
『ミント──』
『あなたがいつか 夢見の術を体得したときに、 表紙は開かれるでしょう』
チェスターしっかし、ひでぇよなぁ
チェスター・バークライトは、足元に転がっている煤けた棒を蹴飛ばしながら吐き捨てた
チェスター見れば見るほど派手にやりやがって。なんていったっけ?
クレスマルス・ウルドール
チェスターの横を歩いていたクレス・アルベインは答えたが、すぐにつけ加えた
クレスもうその話はやめよう、チェスター。僕たちはこれからのことを考えるべきだよ
チェスターわかってるって。わかってるさ。けど、このありさまを見るとな
チェスターは足を止め、見渡す限りの焼け野原を睨みつけた
アセリア歴四三〇四年──
ダオスを倒したのち、トーティス村に戻ったクレスたちを待っていたものは…
ダオスの部下によって焼き払われたままの故郷の姿だった
チェスターは妹のアミィ、クレスの両親たちをはじめ相当数の墓をすでに建てていたが…
それは再生への一歩というにはあまりにも遠く…
むしろ在り合わせの木材と石を拾って作った墓碑はわびしさを募らせているだけだ
湿った風がクレスたちの背後から吹きつけた
クレスひと雨くるかな
チェスターああ、オレの言うとおり、さっさと掘っ建て小屋を作っておいて正解だったろ?
クレスそうだな
クレスミントは大丈夫かな
チェスターああ?おふくろさんの墓に行ったんだろ?
チェスターすぐ近くなんだから大丈夫に決まってるじゃないか
チェスターまあ、それだけミントのことが大切なんだろうけど
クレスべ、別にそんなんじゃないっ。雨が降ってきたら濡れるじゃないか。それだけだよ
チェスターだーかーら。子供じゃあるまいし、ちょっと濡れたぐらいじゃ死なねーよ
チェスターっとにおまえってわかりやすいよな
クレスはきゅっと眉根を寄せると、ひとりでずんずん歩き出す
ブーツの下で、どこかの家で使われていた皿の破片がチャリッと音をたてて割れた
チェスターおい、待てよ
チェスターが苦笑しながら親友を追いかけて行ったあと…
雨の最初のひと雫が皿の破片に落ちた
水滴は皿の表面を滑り、付着した泥と一緒に地面に吸い込まれて消える
それはトーティスの惨状を洗い流そうとしているかのように見えた
瑠璃の夢 第一章scene1
ミントただいま
ミント・アドネードが立て付けの悪い小屋のドアを押して駆け込んできたのは…
ふたりが戻ってからしばらくしてのことだった
チェスター遅かったな。あーあ、ずぶ濡れじゃないか
クレスごめんよ、ミント。迎えに行こうかと思ったんだけど
ミントいいのよ。小屋はここしかないし、迷いようもないもの
髪や服からぽたぽたと雫を垂らしているミントは…
クレスから清潔なタオルを受けとると微笑んだ
三人が村を再建すると聞いて、トリニクス・D・モリスンが用意してくれたもののひとつだ
クレスたちは、ほんの数日前までモリスンの家にやっかいになっていたが…
いつまでも村をほうっておくわけにもいかないと、ここに戻って来たのだった
廃材を集めてやっとふた部屋ある小屋を建てたところだが…
それすらもモリスンが持たせてくれた必要最小限の生活道具がなければ無理だったろう
チェスター着替えてくれば?
ミント……ええ
チェスターが気を利かせて言うと、ミントはクレスをちらっと見ながら頷いた
小屋は狭かったが、奥にとりあえず板で仕切られただけの部屋がこしらえてあった
クレスたちはミントがそこを使うべきだと主張し、なかば強制的に彼女の荷物を入れてしまったのだった
クレス火をおこしておくよ
ミントああ、夕食の支度なら私が
クレスその前に体を暖めなくちゃ。ほら、風邪をひくから早くしたほうがいいよ
ミント(なんだか、私だけ悪いみたい……)
もう、しばらく前から感じていることだが…
クレスもチェスターも自分を大事にしすぎているような気がする
とくにトーティスの村に戻ってからはろくに小屋を建てる手伝いもさせてくれなかった
ケガをしてはいけないから、というのがふたりの言い分だったが…
さんざん危険な目に遭いながらダオスを倒した仲間としては、素直に頷けない気分なのだ
ミント(クレスさんたちにはこれから 村の再建という大変な仕事が 待っているんですもの)
ミント(私もできる限りのことを しなくては)
ミントはタオルをきちんとたたみ直しながら、そう自分に言い聞かせた
クレスだからさ、やっぱり聖レニオス教会を中心に考えたほうがいいよ
クレスなんてったってトーティスのシンボルだったんだし
チェスターそうだなあ。けど、でかいから石材がすごいぜ
チェスターまずは人が住めるようにしないとダメだ
クレスそうか
ミントの作ったささやかな夕食をとったあと…
クレスとチェスターはテーブルいっぱいに広げられた白い紙の上で顔を寄せ合っていた
“新しい地図”とふたりが呼んでいるところの紙には、ほとんどなにも書き込まれていない
かつてふたりの家があった場所。その中間あたりにあるこの小屋
それから教会と南の森がわずかに記されているだけだった
クレスそうか……なあ、ここってなにがあったんだっけ
クレスが小屋の南側をひとさし指で押さえる
チェスターゴーリの親父さんのとこだろ。忘れんなよバカ
ゴーリは、早くに両親を亡くしたチェスターとアミィの親代わりをしていた、雑貨屋の主人だ
クレスごめん。けどこの作業って……
チェスター言うなよクレス。大変なのは最初からわかってる
クレスそうじゃなくてさ。怒るなよ、チェスター
クレスチェスターが村を元どおりにしたいって気持ちはわかるよ。でも、これって変だよ
チェスターなにが
クレスだって『ゴーリ』を作ったって、もう親父さんはいないんだよ
クレス襲われる前のトーティスを再現したって、もうみんな帰ってきやしないんだ
突然、チェスターがクレスをギロリと睨んだ
チェスターじゃあ、おまえはどうしたいんだ?
クレスいや、具体的にどうって案があるわけじゃないけど…
バンッ!
チェスターは両手でテーブルを叩くと眉を吊り上げる
食器を洗っていたミントは肩をビクンとさせ、そっと振り返った
チェスタークレス。おまえには思い出がないのか!?
クレス……あるよ。あるに決まってるじゃないか。僕はここで生まれて育ったんだ
チェスターだろう?
チェスターだったらせめて家や道場や教会なんかだけでも元通りの場所につくりたいとは思わないのか?
チェスターそれに、考えなきゃならないのはオレたちのことより、死んでいった村人たちのことだろう
クレス……
クレスが首を傾げると、チェスターはじれったそうに口を開いた
チェスターほんっとにバカだな
チェスターいいか、オレたちは生きてる。その気になりゃあ世界の裏側で暮すこともできるだろう
チェスターだが、この村でなんの罪もなく殺されていった村の人たちはどうだ?もうどこへも行けやしないんだぞ
幽霊、という言葉が思わずクレスの脳裏に浮かんだが、口に出すのははばかられた
チェスターまさか、目に見えないものは存在しないだなんて思ってるわけじゃないだろうな
クレス……それは、アーチェのこととか?
チェスターちがう!!なんでここであいつが出てくるんだよ
チェスターそりゃ、どうせあいつは、見えないところで元気にやってるだろうが
チェスターは大げさにため息をつくと
チェスターじゃあ、こう考えてみろよ
チェスターおまえは毎日真面目に働いて生きていたにもかかわらずまきぞえを食って殺された村人だ
チェスターいまはもう魂だけになってふわふわと……
と、目を宙に泳がせた
クレスわ、わかった
クレスは苦笑しながら何度か頷き
クレスチェスターのいうとおりだ。僕は、たとえ肉体を失っていてもこの村にとどまりたいと願うだろう
クレスだからチェスターはできるだけ昔のトーティスを再現したいってことなんだな
と、確認した
チェスターそうとも。やっと理解できたか
チェスターオレだって現実はわかってるつもりさ
チェスター新しい村人を受け入れれば、昔の面影なんてなくなるぜ
チェスターだからせめて思い出の場所だけは確保したいんだよ
クレスだったらやっぱり教会は必要だ
クレスがきっぱりと言い切る
チェスターおふくろの葬儀をやったからか?
クレスそれもあるけどさ。覚えてないか?
クレス僕たちが人生最初の取っ組み合いをしたのはあそこの控え室だった
チェスターそうそう。おまえ、あのころから弱っちくてな~
クレスチェスターこそ、目がこーんなに細くてさあ
ふたりは顔を見合わせ、げらげら笑ってしまった
ミントが立っているのに気付いたのはしばらくしてからのことだった
ミント……あのう
クレスえ?
ミント火を落とす前にお湯を沸かしたので。お茶です
どうぞ、とふたつのカップがコトリと音をたてる
クレスああ、ありがとう
ミントなにかお手伝いすることは?
いや、と即座に首を振ったのはチェスターだった
チェスター今夜のところはないよ。先に寝てくれ
ミントでも、私にもなにかさせてください
チェスターそうだな……明日からはとりあえず留守番を頼みたいんだけど
ミント留守番、ですか
失望を気取られないように、ミントはさりげなく繰り返した
チェスターああ。オレとクレスは建築資材の買い出しに行こうと思ってるんだ
チェスターそれがすめば村に大工たちが入ってくる
チェスターそしたらケガ人も出るだろうし、ミントの本領発揮さ
ミントそうですね。ケガ人なんて出ないほうがいいですけど
ミントは微笑んで見せ
ミントおやすみなさい
と告げた
小部屋に引き取ると、ミントはごく簡単にしつらえたベッドに座り、暗闇の中でしばらくそうしていた
ミント(どうしてこんな気持ちに なるのかしら…)
ミントはいいようのない不安に襲われている自分に驚いていた
クレスとチェスターの話に入っていけない
自分はこの村の出身ではないのだから当然といえば当然なのだが、この疎外感はどうだろう
ミント(私は必要と されてないのかもしれない)
ミント(……いいえ、そんなことないわ。 トーティスの再建に役立てることが きっとあるはずよ)
もうすぐ建設が始まると、チェスターに聞いたばかりではないか
そうすればきっと賑やかで忙しい毎日になるだろう
ミント(たぶん、あの旅の 刺激が強すぎたのだわ。 だから気が抜けてしまったのかも)
ミントはきっとそうに違いないと自分に言い聞かせると、そっと横たわる
なにか大切なことを忘れている気がしたが、間もなく眠りに落ちてしまった
瑠璃の夢 第二章scene1
『ミント』
『あわててこの日記を 書きはじめましたが…』
『なんとか今日も母娘ふたり、 無事に夜を迎えることが できました』
『いま、こうして耳をすますと となりの部屋であなたが静かな 寝息をたてているのが聞こえます』
『窓の外は降るような星空です── 明るい月たちのまわり以外は』
『ねえミント、夜空の星には 本当に人の未来や運命が わかっていると思う?』
『なにを唐突にと、 笑わないでくださいね』
『アルザスはそれを占星学者である 自身の一生のテーマとし…』
『半分だけの結論を持って、 天に召されました』
『半分とはどういうことなのか、 気になるでしょう』
『アルザスはいつも こう言っていました』
『「人間は生まれ落ちた瞬間に、 自分をとりまいていた 星の位置によって…」』
『「一生の運命を 決められてしまうんだ」』
『「それは宿命と言い換えたほうが 正しいかもしれない」』
『「星は決して間違わないし、 誰もそこから逃れることは できないと言われているんだ」』
『「でもね、メリル。 わたしは思うんだ。 人間は無力じゃない」』
『「たとえ悲しみや苦しみが 襲ってくると 星が語っていても」』
『「もしかしたら強い意志と力で それを捻じ曲げることが できるんじゃないだろうか」と』
『彼は、アカデミーで占星学を 学んでいたときから とても優秀な学生だったそうです』
『助手として残れば 教授の椅子も約束してやろう、と アカデミーから言われたそうよ』
『それを断ったとき、 アカデミーの仲間うちでは…』
『「アルザス・アドネードは 金を積まれてどこかの要人の 専属占星学者になったらしい」』
『という噂がまことしやかに 広まったんですって』
『もちろんそれはでたらめで、 彼はその噂に傷つき、 ひとり深い山中で暮らし始めたの』
『そこで私たちは 知り合ったわけだけれど』
『おかしいのは、アルザスは…』
『「きみを山の中で見つけるなんて、 星は教えてくれていなかった」と 驚いていたこと』
『この世に起きるすべての事象は 星によって語られているはずなのに なぜだろうと…』
『あとになって何度もふたりで 話し合いました』
『けっきょく、ダオス封印という とてつもなく強いできごとが…』
『運命を変えてしまったのだろう という結論に達したのですが』
『──もちろん、本当のところは わかりません』
『あのとき、アルザスは こうつぶやきました』
『「だったら自分で変えられる運命も あるかもしれないな」と』
『当時は具体的な意味が わかりませんでしたが…』
『すでに彼は自分の死期を 悟っていたのでしょう』
『星がはっきりとそれを 示していたはずですから』
『アルザスは、 あなたが一歳になる前に 亡くなったと書きましたね?』
『そうです…… 彼は自分の運命を 変えられませんでした』
『だから結論は半分、なのです』
『でも、代わりにミント、 あなたという命が 生まれていました』
『アルザスはいつも 私たち母娘の運命を 気遣ってくれていました』
『彼が最期に私に語ったことを お話します』
『どうか気持ちを強く持ってね』
『アルザスは苦しい息の下で 言いました』
『「言いにくいことだが──」』
『「きみとミントをやがて 想像もできないような 恐怖が襲うだろう」』
『「命も落としかねないような」』
『「いまからちょうど一七年後の 星の巡りがそう語っている」』
『「だが、残りの時間を使って なんとか運命を変えてほしい」』
『「私がきみに出会うことを 予知できなかったような 思いがけない幸福によって」』
『「生き延びてほしいのだ」』
『「ミントがきみから強い意志と力を 受け継いでいれば、 不可能ではないだろう──」』
『想像もできないような恐怖……』
『私にはすぐにそれが ダオスのことだと わかりました』
『けれど、私にはどうすることも できず、封印の祈祷をするのが 精一杯でした』
『そして、今年がその 一七年目なのです』
『正直に言いましょう』
『私は、たぶんアルザスが言っていた “恐怖”によって、命を落とすのでは ないかと予見しています』
『なんとかあなただけでも 生き延びてください』
『私は、あなたがこれを 読んでくれることを祈っています』
『読むということは、私の亡きあとも あなたは無事に生きていると いうことですから』
『こんなに幸福なことはありません。 信じています──』
クレスミッドガルズの商人が、どうしてトーティスにいるんです?
チェスターおまえも仲間か
チェスターが少年に向って顎をしゃくると、カイムは弾かれたように首を振った
カイムちっ、ちがいますっ。僕の父はいまミッドガルズで小さな雑貨店をやっているんですけど
カイム昔、ユークリッドにいたときにクレスさんのお父さんの道場に通っていたんだそうです
カイムそれで……今度のことを人づてに聞いて……
少年が目を伏せると、横にいたローデルがふんと鼻を鳴らした
カイム父は僕にトーティスの村に行くようにと言いました
カイム村がどういう状態になっているかはわからないけど、なにか僕にできることをお手伝いするようにと
ローデルハッ、そりゃ殊勝なこった
ローデルが笑うのを、ミントが遮る
ミントそうなの、クレスさん。私、お母さんのお墓でカイムさんに会ってね
ミント小屋まで帰ってきたんです。そうしたらこの人が中にいて……
ローデル鍵はかかっていなかったぞ
ローデルそれに、泥棒が入ったところでこんなボロ屋、とられるものはなにもあるまい?
チェスターいちいち嫌味なやつだな
チェスターミッドガルズから来た悪徳商人なんだろ?あんた、自分でそう言ったよな
チェスターってことは、だいたい想像がつくぜ
ローデルほう
チェスターシンソールで買い占めしたの、あんただろ
ローデルはにやりと笑った
クレスそうか。おかげで僕たち、ひどい目に遭ったんだからな
クレスいったいどういうことなのか、説明してほしい
ローデルもちろんだ。とにかく中へ入らないかね
チェスター待てよっ!
チェスターが追いかける
クレスもあとに続こうとしたとき誰かに袖をひっぱられた
カイムクレスさん
クレスああ、カイム君、だよね。なんだかバタバタしちゃって申し訳ない
クレスわざわざミッドガルズから来てもらうなんて……ええと、きみのお父さんが
カイムええ。ミゲール先生の教え子でした。でも、そんな話はあとです
カイムあのローデルのことは噂で知っています
カイムミッドガルズでも有名なやり手の建築商人で……
カイム大工をたくさん使って、かなり無理なことするらしいです
クレスそうか。教えてくれてありがとう。さあ、僕たちも中へ入ろう
チェスターはっきり言えよ、ローデル
チェスター石材と木材を買い占めて、オレたちに何倍もの値段で売りつけようとしてるんだろっ!
ローデル売りつけるだと!?こいつはいい!
ローデルは突然大声で笑い出した
ローデルそんなケチなことをどうして俺がせにゃならんのだ?
ローデルそっちの小僧に聞いてみるがいい。ミッドガルズのローデルといえば、少しは名が通っていると思うがな
クレスそうらしいよ
クレス僕も最初、買い占めと聞いたときにはチェスターと同じことを思ったんだ
クレスでも、この人はたくさんの大工や職人を使ってるらしい
ローデルそのとおり。おまえら、トーティスの生き残りらしいな
ローデル村を再建だと?バカを言っちゃいけない
ローデルおまえらだけでそんなことができるわけがない
ローデル再建はこの俺がする。そしてこの先村を仕切っていくのも、俺だ
チェスターなんだって!?
ローデルこれを見ろ
ローデルはテーブルの上に懐から出した紙を広げた
クレスあっ
クレスたちにはひと目でそれがトーティスの地図であることがわかった
自分で作ったものとはくらべものにならない、精密で専門的なものに見える
驚いたことに、すでに地図にはどこにどんな建物を建てるのかが、ペンで細かく記されていた
クレス(やっぱりこの男は 村を自分のものにしようと しているんだろうか)
ローデル俺がこの村の悲劇を聞いたのは、ちょうどミッドガルズで大きな仕事をやり終えたときだった
ローデル前まえから、ユークリッドにも拠点がほしいと思っていたんだ
ローデルそこで腕利きの職人を集めてやってきたというわけさ
ローデルシンソールでおまえたちの噂を聞いてきた職人がいて…
ローデルそれで早馬で先回りさせてもらったというわけだ
ローデル先住者なら、ひと言挨拶をしておくのが礼儀かと思ってな
クレス職人の人たちは?一緒じゃないのか
ローデル大部分は都の宿屋さ。とりあえず五〇人連れて来ている
チェスターそんなにっ
チェスターそりゃ資材を買い占めでもしないと、みんなに仕事が回らないか……
チェスターって、おい、冗談じゃないぞ。オレたちのトーティスをよそ者に勝手にいじくり回されてたまるかよ
ローデルそんなことを言う権利はないはずだ。国王でもあるまいし、おまえたちの土地ではないのだろう?
チェスターそりゃそうだけど
クレスでもローデルさん。僕たちもシンソールで少しですが建築用の資材を買ったんです
クレス馬と人手を借りて……一軒分とちょっとしかお金がなかったけど
クレスたぶん明日にはこちらに来るはずです
ローデル一軒!?一軒では村とはいえないだろう
ローデルは鋭い目をわざとらしく細めて嫌味たっぷりに言った
ローデルなあ、悪いことは言わない
ローデルおまえたちの家を建てるならここに建てるといい。それくらいの自由はやろう
ローデルだが、あとはこちらに協力するんだ
やなこった、とチェスターが吐き捨てた
チェスターちょっと聞くけどな、おっさん。家を何軒建てる気だ
ローデル最終的には一〇〇ほど
チェスターふん。じゃあ、そこに誰が住む?
ローデル拠点がほしいと言ったろ。俺の仕事を手伝う職人を優先的に住まわせる
チェスター大工村かよ
チェスターでもって、無理な仕事の取り方をしてもともとユークリッドで大工をしてた連中は日干しになるんだな
ローデルほーう。なかなか世の中の仕組みを理解しているとみえる
クレスはふたりのやりとりを聞きながら、ローデルが持ってきた地図を見ていたが
「あれっ」と声をあげる
チェスターなんだよクレス
クレスいや、ここ……ほら、教会がない
チェスターああ、本当だ
地図には住まいのほか、村人の生活に必要と思われる店や、宿屋などが描き込まれていたが…
トーティスのシンボルだった教会はなかった
ローデル教会だと?ここか?
ローデルその場所なら宿屋を建てようと思っている
クレスそれはダメです
クレス聖レニオス教会は、トーティスの人たちの大切な心のよりどころだったんだから……
ローデルトーティスは死んだんだぞ!
突然、ローデルが大声をあげたので、クレスとチェスターはびくっと肩を震わせた
ローデル教会のことなんか知るか。神がいるならなぜこんなひどいことになったんだ!?
ローデルとにかく。俺はおまえたちに許可を取ったり、相談にのってもらうためにここに来たんじゃない
ローデル挨拶しに来てやっただけでもありがたいと思えよ
地図をたたむと、ローデルは
ローデル邪魔したな
と言い捨てて立ち上がった
チェスター……どこに泊まってるんだ?これから都までもどるのか
ローデルまさか。途中で先乗りの職人たちが、野宿してるんでな
ローデルが闇の中に消えていってしまうとクレスは親友を表に連れ出した
クレスなあ、どうする?
チェスターどうするったって
ふたりは夜気の中で途方に暮れてしまう
クレス僕たち以外の誰かがトーティスを再建するなんて、考えもしなかったなあ
チェスターああ、確かに。しかし、もしオレたちの手で村を元どおりにできたとしても……
チェスター誰が住むのかはわからないわけだよな
クレスそうだけど、あの男のやり方は……
チェスターまあ様子を見るしかないだろうよ。明日にはオレたちの資材が届く。とりあえずはそっちが先だ
チェスターオレたちはともかく、ミントにはちゃんとした家が必要だろ
チェスター彼女を安心させるためにもそのほうがいい
チェスターはクレスの肩をポンと叩いた
──その夜、ミントは不思議な夢を見た
ミント(どこかしら、ここは……)
初めてクレスと時空を超えたときの草原に似ている気もしたが、はっきりと周囲が見えない
といって、夜ではなさそうだ
空には昼の明るさがないかわりに、冷たい暗さもなかった
ミント(太陽も、月も星も出ていないわ)
ミントは空を見上げて首をかしげる
こんな色は見たことがない、よく知っている青空よりもずっと濃い、澄みきった青だった
しばらく空を見ているうちに、ミントは、自分が浮かんでいるような気分になってきた
草原だったはずの地面はもうなく、そこも濃い青で満たされているのを眼下に見ることができたからだった
しかし、恐怖はない
ミント(なにかしら、この気持ち…… なにかをしなければ いけない気がする……)
ミント(誰かを呼ばなくちゃ いけない気がする……!)
ミントは焦り、そこにないはずの地面を蹴った
すると、くるりと体が一回転する
窮屈な卵の中で動く、誕生間近の魚になったような感じがした
しかし次の瞬間、狭まっていた空間が一気に無限に広がるのがわかった
目が覚める
ミント(なんだったのかしら。いまの夢)
チェスターよう、早いな
ミントあ……おはようございます
チェスター小僧は?
ミントまだ寝ているわ
チェスターそうか
チェスターは小屋のまわりの土地をならしているのだと言い、それから怪訝そうに訊ねた
チェスターどうかしたか?クレスなら水を汲みに行ってるけど
ミントいいえ、なんでもありません
夢を見たと言うのは簡単だが、説明するにはあまりにも漠然としすぎていた
ミントあのう、チェスターさん。私、考えたのですけれど
チェスターなに?
ミントモリスンさんのところへ行ってきてもいいでしょうか
言ってしまってから、ミントは自分に驚いていた
いまのいままでモリスンのことなど、まったく考えていなかったからだ
チェスターそうだな。オレたちも昨日のおっさんのことを早く報告しなくちゃと思ってるんだけど
チェスターこっちを放っていくわけにもいかないからな
ミントええ。ですから私が行ってきます。これからどうすればいいか、相談を……
ミントもしかしたらこちらに来てくださるかもしれませんし
チェスター助かるよ。クレスには、もう話したんだろ?
ミントいいえ
チェスターいいえって、ミント。そういうことはまずクレスに話してだな……
チェスターがとまどったとき、当のクレスが戻ってきた
クレスおーい、水は外においておくからな。きょうから人が増えるし、多めに汲んでおいたよ
ミントとチェスターの視線が一瞬からまった
クレスああ、ミント起きたのか。おはよう
朝陽に透ける金髪を掻きあげながら、クレスはにっこりする
ミントおはようございます
ミントは礼儀正しく会釈すると、そそくさと出かける準備をし
ミントそれでは行ってまいります
と杖を片手にふたたび頭を下げた
クレスあ?なに?行ってきますって、ちょっとミント!
クレスが追いかけようとするのを、チェスターがぐいと引き戻す
クレスなっ!?なんだよ。離せよチェスター
チェスター大丈夫だ。ミントはモリスンさんの家に行ったんだ
クレスなんだって?
チェスターほんとに、なにも聞いてないらしいな
クレス……うん
チェスター立ち入ったこと聞きたくないんだけどさ。ミントとなんかあったのか?
クレスへっ?
チェスターなにマヌケな声出してんだよ。トーティスに戻ってきてから、ずっと変だろ
クレスたしかに……あんまり喋らないなとは思ってたけど、ミントはもともとおとなしいし……
クレスお母さんの墓の近くにいるせいでいろいろ考えてるんだろうと……つまり、悲しんだり、懐かしんだり
クレス違うのかな
チェスターなにもなければ、なんでおまえの顔を見るなり逃げるように行っちまうんだ?
クレスうーん
クレスが唸ったとき、小部屋からカイムが出てきた
寝癖のついた髪がぼさぼさしており、彼をいかにも少年という感じに見せている
カイムおはようございますクレスさん、チェスターさん。寝坊しちゃってすみません
クレスいや、まだ早いよ。眠れたかい
ええ、と言いながら、少年はさりげなく小屋の中を見回した
チェスターミントなら留守だ。だから朝飯はおまえにまかせた。作れるか?
カイムあ……ええ、はいっ、うちは両親が店で忙しいので、僕がしょっちゅうやるんです
カイム仕事をもらえてうれしいです。おいしいの作りますから
チェスターいや、ロクな材料がねーんだ。期待はしてない
チェスターが土ならしの続きをしに出ていってしまうと、カイムはクレスに聞いてきた
カイムどこに行ったんですか、ミントさんは
クレス知り合いのところだよ
クレスほら、昨日思わぬ横槍が入っちゃったから、たぶんそのことを相談しにいったんだと思うけど
カイムそうですか。ねえクレスさん──
カイムたしかにローデルはミッドガルズでもいろいろ噂のあるやつですけど、村ができていくのは楽しみですね
クレスえ!?
カイムよそ者の僕がこんなこと言ったら、気を悪くするかもしれないけど……
カイムこのままよりは、きっとずっといいです
カイムだから、ローデルとうまくいくといいですよね。なんて、無理かな
カイムは笑った
クレスも思わずつられて笑ってしまいながら、確かにそうだなと思う
クレス(あの無惨な思い出を 晒しているよりは…)
クレス(早く新しい村を 作ってしまったほうがいいよな)
クレス(僕たちの希望を通すように 頑張るのは相当大変そうだけど)
ふと、ミントの横顔が浮かんだ
クレス(帰ってきたら話をしてみよう。 様子が変だなんて、 チェスターの思い過ごしだよな)
瑠璃の夢 第三章scene1
『ミント』
『アルザスが息を引き取る直前に 言い残した言葉については、 すでにお話しましたね』
『私とミントを襲う恐怖のことです。 でも、心配しないでください』
『あなたを安心させるためにも、 今夜はもう少しくわしく 書こうと思います』
『星の巡りによると…』
『私は何者かにとらわれ、 非業の死をとげかねない らしいのですが…』
『ミントの運命は そうとは限りません』
『私に死がもたらされれば…』
『引き代えに天はあなたに 素晴らしい贈り物をすると 囁いているそうです』
『贈り物って、なんでしょうね』
『私たちふたりの生活に、 ついぞ縁のなかった 宝石や金貨ではないでしょう』
『美しい法衣や杖でもありませんね、 きっと』
『もしかしたら愛する人を 見つけたのではありませんか?』
『だとしたら、いまごろは きっといろいろなことに 戸惑ったりもしているでしょう』
『アルザスと共に暮らし はじめたころ、私はよく不思議な 感覚にとらわれていました』
『彼が素っ気なかったせいも ありますが…』
『近くにいればいるほど、 なぜか自分の存在が ぼやけてしまい…』
『心許なくさみしい感じが したのです』
『私は星のこともよくわからないし、 法術師でありながらなんの役にも 立っていない気がして』
『そのくせごくたまに 彼が町まで買い出しに行って 山の中の家でひとりにされると』
『強い孤独にさいなまれました』
『けっきょく、 どんなにアルザスの 口数が少なくても…』
『私にとっては彼と一緒にいるのが いちばんの幸せなのだなあと 考えるようになったのです』
『ほんの数年、短い間でしたが、 一緒に生きることができて 私は幸せだったと思います』
『ミントがどんな男性と 愛し合うようになるのか いまの私にはわかりませんが…』
『その人がどこで生まれ、 どこに住んで何をしていようと…』
『とにかくできる限り 一緒にいてあげなさい──』
『天がくれた贈り物が、 あなたの真の居場所だといいなと 私は思うのです』
ミントがトーティスの村に戻ると、様子は一変していた
そこここで、家の建築がはじまっていた
まだ土台の段階ではあったが…
数十人もの男たちが汗を垂らしながら石を積んだり重たそうな鋸で木材を切ったりしている
ミントは早足で小屋まで戻った
カイムあっ!?
台所にいたカイムが気配に振り返り、ぱっと顔を輝かす
カイムミントさんっ。お帰りなさい
ミント……なにをしているの?
這いつくばっている少年に、ミントは怪訝そうに訊ねた
カイム家具とか食器とか、全部運び出すんです。ここに新しい家を建てるので……
カイムはぐずぐずと立ち上がると、言いにくそうに続けた
カイムほんとは、もうとっくにこの小屋はなかったはずなんですけど……
カイムシンソールからの資材と大工の人たちの到着が遅れたので……
ミントそうだったの。そうですよね、もう取り壊されているはずだったんだわ
ミントクレスさんたちは?
カイムチェスターさんと一緒に南の森です
ミント南の森?まさか猪狩りじゃないでしょうね
カイムなんですか猪って。この間もそんなこと──
ミントああ、あのふたり、子供のころから、しょっちゅうあそこで猪狩りをしていたらしいの
へえ、とカイムは一瞬目を耀かせかけたが
カイムきょうは違いますよ
と笑った
ミントとにかく行ってみるわね
カイム待って、僕も
クレスミントーっ!
なだらかな草地に足を投げ出して座っていたクレスは…
ミントの姿を見るなり両手を高く挙げた
チェスターよう。無事に戻ったな
チェスターミント、こっちがオレたちの家を作ってくれる大工のレイニーだ
レイニーと呼ばれた小柄な中年男は
レイニーよろしくお嬢さん
と微笑んだ
レイニーこっちは見習いのリフだ
リフはカイムと同い年くらいだろうか
ひどく痩せており、ひょろりとした首を折って無言で会釈した
クレスで、どうだった?モリスンさんは
ミントええ。お金のことは気にするなって……
ミントいまやっている仕事が一段落したら様子を見にきてくれるそうです
ミントモリスンさん……自分たちの信念を曲げるなって
ミントダオスを倒したときのことを思い出せって
チェスター大げさだなあ。ローデルの野郎はただのおっさんだぜ
チェスターダオスと一緒にするにはもったいねーよ
チェスターが吐き捨てるように言う
ミントもしかして私が発ったときより、状況は悪くなっているのかしら
レイニー悪いもなんも、お嬢さん!
レイニーシンソールでクレスさんが押さえた大工を、ローデルは出発直前に金で釣ったんだ
レイニー一緒に来るはずだった四、五人はいま、村で土台を組んでるぜ
ミントあなた方は誘われなかったんですか?
レイニー誘われたさ、もちろん。なんてったって俺は腕はいいんでね
レイニーしかし、職人ってのは金で転んでるうちは二流なのさ
レイニー俺は最初に雇われたところで、約束どおり最高の仕事をするのが信条なんだ
ミントまあ。よかったですね、クレスさん。いい方で
チェスターよくねえよミント。あっちは五、六〇人はいるんだぜ。資材もたっぷり
チェスターあっという間に、ローデルのユークリッドの拠点である大工村が、ここに完成しちまう
チェスターそんなのトーティスとは言えないだろ
ミント……ごめんなさい
クレス気にするなよミント。こいつはここのところ、ずっとカリカリしてるんだ
ミントあ、いけない
ミントはパチンと手を合わせ
ミント大切なことを忘れていました。あのね、クレスさん
ミントモリスンさんからの伝言なんですけど…
ミント以前トーティスに住んでいた人たちの名前を教えてほしいんですって
クレス名前?全員の?
ミントええ、そうだと思います。わかりますか
クレスうん……わかると思うけど、どうしてまた
ミントさあ……理由は言ってませんでした
クレスふうん、そうか。とにかくそれは早急にやるよ
ミントお願いしますね
ミントは曖昧に微笑みながら、私ったらバカみたいだわ、と思う
ミント(ちゃんとモリスンさんに 聞いてくればよかった)
ミント(これじゃ子供のお使いみたい)
クレス僕も忘れてたぞ
ミントえ?
クレス家のことなんだけど。レイニーの相談に乗ってやってくれないか
ミント私がですか
クレスやっぱりミントが使いやすいように作ったほうがあとあといいだろ
ミント……
クレスあ、いや。別に深い意味はないんだ
クレスただ……しばらくは家が一軒しかないわけだし……
ミントわかりました
ミントはトクトクと音をたて始めた心臓を意識しながら答えた
ミント(そうよね……)
ミント(ふたりきりではないけれど、 クレスさんときちんとした家で、 一緒に暮らすんだわ)
ミント(旅ではなく、 戦いのためでもない……)
ミント(これからはそういう、 ごくあたりまえの生活を するのよね)
体が熱くなってくることに、ミントは心地よさを抱いていた
それから、問題が山積しているのに幸せを感じている自分を、ちょっぴり恥じた
クレスたちがローデルと衝突したのは、その日の夕方のことだった
小屋はすっかり取り壊され、みんな空腹を押さえきれない時刻になった
廃材で火を起こして夕食の支度をすることになり…
カイムとリフは暗くならないうちにと川まで新鮮な水を汲みに行ったのだった
チェスターおい、あいつら遅くないか?
クレスそういえば……
レイニーどれ、見てくるよ
レイニーどうせ水遊びでもしてるんだろ。ふたりともまだ子供みたいなもんだし
レイニーえ……
レイニーはほんの数秒、暗闇を透かして眉を細めていたが、突然ダッと走り出した
レイニーリフっ!?どうしたんだ、お前っ!
クレスたちもあわててレイニーの走っていった方向を見つめた
ひょろひょろした影が二、三度揺らめいたと思うと、ドサリと倒れる音がした
レイニーリフっ、リフっ!?おい、しっかりしろ
レイニーに抱き起こされて、見習いの少年は呻いた
薄闇の中でも、あちこちケガをして、ひどく殴られたような顔をしているのがはっきりわかった
リフううっ……力……カイムがまだ、川……に
チェスターなんだと!?くっそう。あの親父、ふざけやがって!!!!!
クレスダメだ、チェスター!落ち着けっ
チェスターうるせぇよ!
チェスターはひとまとめにしてあった荷物の中から弓と矢筒を引っつかむと川に向かって駆け出した
クレスミント!リフを頼んだぞ
クレスは叫び、あとを追った
ミントレイニーさんっ、火が消えかかっています!薪を足して、お湯を沸かしてください
レイニーけど、リフが……
ミントそれは私にまかせて!ああ、水は瓶に残っている分だけでいいですから、早く!
てきぱきと指示を出しながら、ミントは地面に仰向けに寝かされた少年の顔を覗き込んだ
ミントヒール!
背後でパチパチと薪がはぜた。チャプンという水音
レイニー……お嬢さん?
荒れた大地を踏みしめて近づく足音にミントは振り返る
心配そうなレイニーの顔が肩越しにリフを覗き込む
ミントもう大丈夫ですよ
レイニー
ミントさあ、火のそばに寝かせてあげてください
レイニーこれは……!?あんた、いったいなにをしたんだ。どうやって治した?
ミント私の母は……昔、法術院にいたんです。それで少し習ったことが
レイニー法術師、なのか
レイニーはリフを抱きしめると、頭を下げた
クレスいたぞっ!カイムっ、僕だ。しっかりしろっ
岸辺に上半身を横たえたカイムは、腹部から下を水になぶられながら必死で這い上がろうとしていた
クレスほら、つかまって
カイムク、クレスさん……。すみません、僕……
チェスターおいっ、クレス。来るぞ。大勢だ……二、三〇?
矢筒から抜いた矢を番えようとする親友の手を、クレスは素早く押さえつけた
チェスターなにするんだっ
クレスダメだったら。もし当たったら大変なことになるぞ
大工おーい、まだ誰かいるのか。早くテントに戻らないと、また食いっぱぐれるぞ
どっと笑い声があがる。かなりの人数だ
なんだ?という視線をチェスターに向けられ
クレスさあ。大工たちみたいだけど……
ズザッ!
すぐそばを駆け抜ける足音に、チェスターは目にもとまらぬ速さで弓を構えた
チェスター止まれっ!止まらないとズブリだからなっ
足音がぴたりとやむ
数十人はいるらしい男たちもシンと静まり返った
チェスターオレの弓は狙いをはずさない。クレスの剣の腕は超一流だぞ
クレスおい、チェスター
クレスが一歩進み出ようとしたとき
???おい、明りを貸せ
松明が大きく揺れ、聞き覚えのある声が響いた
クレスローデル!?
ローデルふん。クレスにチェスターか。なんの騒ぎだ?
ローデルは大股で近づいてきながら、ふたりにそう訊ねた
瑠璃の夢 第四章scene1
『ミント』
『きょうはダオスについて 書いてみたいと思います』
『ですがダオスが誰で、 どんな人物であるのかについて…』
『ここでくわしく触れるのは やめておきます』
『世界の脅威であったということ くらいはあなたも 知っているでしょうし…』
『彼のやったことについて 書きたいわけではないからです』
『かつてダオスを封印したとき、 私はもちろんひとりきりでは ありませんでした』
『ミゲールとマリア、 そしてトリニクスという 仲間がいたのです』
『私たちは、大変な苦労の末、 ユークリッド南部の地下墓地に ダオスを封印しましたが…』
『仲間にも一度も 言ったことがないことがあります』
『それは、ダオスの行ないにも なにか理由が あったのではないかという疑問』
『つまり、モンスターを操り、 世界を支配し、 人々を恐怖に陥れるには…』
『それだけの事情が あったのかもしれないと 思ったのです』
『あるいは──本当にただの 狂人だったのかもしれませんが』
『戦っているときは それでも夢中でしたが…』
『封印後にその思いは 強くなりました』
『私が法術師だからかもしれません』
『甘いことをと言われるでしょうが、 私にもっとカがあって彼の心を 癒すことができたなら…』
『状況は違っていたかもしれません』
『私が言いたいのは──ミント』
『もしいまあなたにとって敵だと 思える人がいても、優しくして あげてほしいということです』
『人にはそれぞれ 物語と歴史があります。 どんな平凡な人にも』
『それを忘れずに、 決して一面的に見ないでください』
『目を凝らし、 細心の注意を払わなければ、 真実は見えないものです』
『あなたが自身の法術を 深めて行くためにも、 覚えていてくださいね』
チェスターよーし!そっちにロープの端を引っかけるんだ!あわてるなよっ
クレスたちはみんなで崩れ落ちた教会の石塔をまっすぐに建て直そうとしているところだった
ミントは圧倒され、声をかけそびれて少し離れた場所から彼らを見つめた
クレスおはよう。なんでそんなところに立ってるんだ?
ミントあ、いえ。カイムさんとリフさん、元気になったなと思って……
カイムおかげさまで
カイムが頭を下げると、リフもうっすら笑ってミントを見た
チェスターよーし。梃子と鎖でなんとかなるだろ。朝飯の前に片づくといいんだけど
チェスターが意味ありげに言ったので彼女はハッとなった
ミントごめんなさい!すぐ支度をしますね
朝食はスープとパン粥、モリスンが持たせてくれた少しばかりの干肉だけだった
大工1うまいや。ローデルのテントの飯とは大違いだ
大工2ほんとほんと。お世辞じゃないよ、ミントさん
大工たちは口々にミントの味つけを誉めた
ミント明日になったらきっと材料がたくさんくるでしょうから、分けてもらいましょうね
ローデルがシンソールで料理女の手配をすると言っていたのを思い出してそう言うと
チェスターさて、それだよ
とチェスターが難しい顔になる
チェスター明日になったらあいつらが来る。それまでになんとか教会のカッコをつけないと
けっきょく石塔は重過ぎて動かなかったのだった
レイニーチェスターさん。話では聖レニオス教会はあとで建て直すんだよな
チェスターもちろん
チェスターとにかくあそこは教会の敷地で、宿屋を造るところじゃないってことをあのおっさんにわからせりゃいいんだ
レイニーふーむ。どうせ塔を乗せようにも、屋根も壁も粉々だしな……
レイニーじゃ、やっぱり少し壊すか
クレス(なるほど。塔の足元を壊して、 軽くするわけだな)
クレスは、それも仕方ないかと思いながら、隣りのチェスターに視線を当てた
キッと唇を結び、なにごとか考えている様子だ
クレスははーん
クレスが笑いを含んだ声をあげると、チェスターはハッと我に返る
チェスターな、なんだよっ。変な声出しやがって
クレスいま、思ってたろ
チェスター
クレスアーチェのこ……と……!
思いっきり口を塞がれて、クレスはくくく、と息を漏らした
クレスは、離せよ。図星だろ?いいじゃないか、別に思ったってさ
クレス僕だってちらっと考えないわけじゃなかった
クレスアーチェがいれば魔法で塔を起こすことくらい、それこそ朝飯前なのにって
チェスターうるさい。あいつの魔法は破壊専門だ
クレスく、苦しいったら。あははは、チェスター、やめろってはははは
呆れたレイニーがひき剥がすまで、ふたりは叫び合っていた
ローデルが村に到着したのは、昨日と同じような太陽が照りつけだしてからのことだった
ローデルなんだこれはっ
大工俺が来たときにはもう、こうなってたんです、親方
大工どかそうにも祟りがあるっていわれると怖くて……
ローデル祟りだと?
ローデルチェスター!クレス!どこだ!?
チェスター──呼んだか?
塔の向こう側から現われたのはチェスター以下一〇人の男たちだった
チェスター待ってたぜ、親方
ローデルこれはなんの真似だ
チェスターさあ
チェスターはにやにやしながらとぼけてみせた
チェスターオレたちも驚いてるんだ。聖レニオスの日の奇跡ってやつかな
チェスター昨日の朝起きてみたらこうなってたんだ
チェスター村人たちの魂がこの教会を必要としてるってメッセージかもしれないなあ
ローデルはっ、なーにが奇跡だ
おい、とローデルはチェスターとクレスを交互に睨みつけた
ローデルこの石についてるロープと鎖の跡……それから、聖レニオスは斧も使うとみえる
クレス……
鋭い目をまともに向けられ、クレスは思わず視線をそらしそうになったが、持ちこたえる
ローデル足元の新しい割り口……こりゃあ斧だろ?
ローデルしかも俺の目に狂いがなければ、この現場で使ってるやつと、刃の幅が同じときている
チェスターなんのことだか
チェスターがせせら笑うと、ローデルの顔はみるみる朱に染まった
ローデル騙したな!聖レニオスの誕生祭だと?
ローデルふざけやがって、大事な仕事を一日潰しやがった!
ローデルはチェスターに跳びかかると、胸ぐらを掴んだ
ローデルおかげで大工たちがミッドガルズに戻るのが一日遅れた!
ローデルこれがどういうことだかわかるか!?
チェスター知らねーよ
ペッと男の顔に唾を吐いたチェスターは、次の瞬間、数メートル吹っ飛んでいた
クレスチェスター!大丈夫かっ?
クレスローデルさん。確かに、塔を起こしたのは僕たちです
クレス昨日の夜までかかりました。重過ぎたので斧も使いました
クレスでも、こうでもしなきゃ、この教会の敷地に宿屋が建てられてしまう!
クレス前にも言ったけど、この教会はトーティスの人たちにとっての心のよりどころだったんです
クレス確かに村は全滅して死んだかもしれません
クレスでも僕にだって思い出はある。チェスターだって……
ローデル……
クレスわかってほしいんです。トーティスはまだ僕らの中に生きてるって
ローデルそんな甘い考えが通用するとでも思うのか
クレス宿屋なら、もともとこの東南にありました。同じ場所に建てればいい
ローデルいよいよもって話にならん。これまでだな
ローデルは大工たちを集めると、なにごとか指示を与えはじめた
カイムクレスさん。僕たちが昨日やったことは、ムダだったんでしょうか
カイムあいつら、塔を撤去するつもりですよ
クレス仕方ないさ。僕らの気持ちを示せただけでも良しとしないと
一か月が過ぎた
あの石塔の事件以来、親方は完全にクレスたちを無視し続けており…
おたがい勝手に仕事を進めているという状態だった
よほど大切な事柄に限って、唯一の架け橋であるミントを通じて伝えられた
が、クレスたちが驚いたことに、ローデルは石塔を撤去しなかった
そんなことに貴重な労力を使うのはバカバカしいとばかりに、放置してあるのだ
宿屋は、クレスの提案のためかどうかはわからなかったが…
ゴーリの店の東側にあった以前の宿屋の跡地に建てられた
チェスターもクレスもローデルの真意をはかりかねていたが…
日を重ねるにつれ、あの不格好な石塔が新生トーティスのとりあえずのシンボルのように思えてきていた
わずかずつだが、村らしい形をとり始めたトーティスには…
噂を聞きつけた行商人が立ち寄るようになった
ある日、ユークリッドの都へ行く途中だという行商の男が、ミントあての手紙を持ってきた
ミントまあ、モリスンさんからだわ
そこには、なかなかトーティスに行けなくて申し訳ないという詫びと…
ミントたちへの気遣いが、モリスンらしい簡潔さで綴られていた
ミント『……それから、この間頼んだ 村人のリストを急いで 届けてほしい』
ミント『ところでミント、 夢見のほうはどうだ?』
ミント『夢覗きの布が役に立っていると いいのだが』……モリスンさんたら
ミントは苦笑した
瑠璃色の布は寝具として使わせてもらっていたが、夢見が順調かどうかはわからない
ときおり瑠璃色の夢を見、革表紙の本はいつもそこにあるようになったが…
相変わらず触れることができないままで目が覚めるのだった
ミントクレスさん、クレスさん
ミントは手紙をしまうと、家の裏庭で作業をしているクレスのもとへ走った
クレスどうしたんだい
窓枠と格闘していたクレスは、汗だくだった
ミントあのね、モリスンさんから手紙が来たの
ミント私ったらひと月も放っておいて……頼まれたもの……
クレスなんだっけ。ああ、トーティスに住んでいた人たちの名前?
クレス忙しくて、それどころじゃなかったもんなあ
ミント急いで欲しいって。今夜からできるかしら
クレスああ、やるよ
クレスが頷くと、ミントは安心したように戻って行った
クレスなあチェスター
チェスターやだ
クレスの背後で石の面取りをしていたチェスターは即座に言い放つ
チェスターやなこった。オレは手伝わない
クレスなんだよお。モリスンさん急いでるらしいじゃないか
チェスターバカだな。おまえ、オレが心配してるの忘れたのか?
チェスターいいチャンスじゃないか。ミントとふたりでたまにはゆっくり話をしろよ
チェスター必要なのは台所の設計の話だけじゃないだろ
クレスでも……
チェスターいいかクレス。考えてもみろよ
チェスターオレたちには故郷だが、ミントにとっちゃこんな村、なつかしくもなんともないんだ
チェスターもっと優しくしてしっかりつかまえとかないと…
チェスター新生トーティスの完成とともに、どこかへ行っちまうかもしれない
クレスミントが……どこかへ?彼女がいなくなるなんて考えられないよ
チェスターそうだ。素直で大変よろしい
チェスター同じ時代、同じ村
チェスター毎日一緒にいられて、おまえらほんとに恵まれてるんだってこと、忘れないでくれよな
クレスチェスター
クレス(やっぱりアーチェがいなくて つらいんだな)
親友が背中で言った言葉に…
クレスはあらためて、自分たちが経験したあの旅は紛れもない現実だったのだと思った
その晩、クレスとミントは新しい自分たちの新しい家のテーブルで向かい合っていた
クレスうーんと
クレスまず、ゴーリの親父さんだろ、仕立て屋のニルのとこは、奥さんと子供が……何人いたっけな
クレスあとは金物を扱ってたのが……
ミントクレスさん
ミントはペンを持った手でクレスを遮った
彼女はクレスが思い出した人物を紙に書きとめていく係を引き受けていた
ミントそうやってバラバラ思い出すと時間がかかるでしょう
ミントこうしたら?地図を見て端から埋めていくの
クレスそうだね。確かにそのほうが早い
クレスは目を閉じ、村の門を思い浮かべた
クレス(ここを潜ると、最初に大きな木が あるんだよな──)
クレス(そこを過ぎると 家並みがはじまるんだ)
クレスは目を閉じたまま鮮やかに甦る村の光景を眺め…
そこに生活する気のいい知り合いたちの名を次つぎ口に出していった
突然、クレスの脳裏に、賑やかだったころのトーティスが丸ごと現われた
溢れる光や、笑いさざめく女たちの服、道場から響く威勢のいいかけ声
マリアの作る暖かい夕食の匂いテーブルに飾られたオレンジと黄色の花──
アミィが焼いてきたパイの焦げ──
自分でも気がつかないうちに、クレスは泣いていた
ミントさん……クレスさん?
クレスはハッと我に返った
彼は真っ赤に充血した目で、心配そうにこちらを見ているミントを見つめ返した
クレスもう……二度と帰ってこない。みんな、なくなってしまったんだ……大切だったのに
ミントクレスさん……
ミントはそっと手を伸ばすと、クレスの濡れた頬に触れる
クレスは微笑むと、その手を掴んだ
クレスありがとう、ミント。でも、大丈夫だよ。僕に法術は必要ない
ミントそう?
きみがいれば、とクレスは口の中でつぶやいた
ミント続けられるかしら
クレスもちろん
クレスはもう一度、さっきの門から入り直してみることにした
今度は冷静に村を眺めることができた
瑠璃の夢 第五章scene1
『ミント』
『急いで書きます。 いつにも増した危険を感じます。 これが最後になるかもしれません』
『私たちはおそらく、 ダオスの封印を解く鍵として 扱われるでしょう』
『誰よりも私たちに愛されていたと、 これからも愛されていくのだと 自信を持ってね』
『そして、あなたのそばにいる人を 愛していってください』
『私が今も、 そして死んだのちも アルザスと共にあるように』
『これから私は最後の時間を使って、 この日記帳を夢見の術で封じます』
『いつかあなたが これを読んでくれることを 祈りつつ──』
『追伸:ずっと以前この術のことを 話したら、アルザスは瑠璃色に 大変興味を持っていました』
『瑠璃というのはあなたが 今いる場所の色のことです。 わかりますね?』
『あなたのお父さんは 空の色を連想したようでした』
『ここに、あなたあての手紙を はさんでおきます』
短い夜が明けようとしていた
ローデルうう……っ
ローデルのうめき声に、ミントは、ハッと目覚めた。
ミント(……夢?)
瑠璃色に輝くあの場所にいたような気がした
ミント(そうだわ。 お母さんの日記を読んで……)
ミント(いえ、読まないうちに 目が覚めた?)
ミントはぼんやりしている頭で必死に考えようとしたが…
ふたたびローデルが声をあげたので、今度ははっきりとケガ人のことを思い出した
ミントおはようございます、ローデルさん。起きられますか?
ローデル……ああ
ローデルは、ミントの助けを借りて、ベッドの上に起き上がった
ローデル驚いたな、生きてるなんて──。法術のおかげか?
ミントええ、多少は。充分でなくて申し訳ないんですけど
とたん、頭の中に響いた言葉があった
ミント(アルザス・アドネード)
ミント!?
ローデルどうかした、のか
ミントいいえ
ミントは不自然なほどきっぱりと否定した
ローデル俺のために疲れさせてしまったんだな……少し休んでくれ
ローデルの声に力はなかったが、思いやりが感じられた
ミントありがとうございます。でも大丈夫です
そのとき、ドアがノックされた
リフ医者を連れてきたけど
顔を覗かせたのはリフだった
医者骨なんか砕けちゃいませんよ
ローデルを診た医者は、信じられないといった表情で両手のひらを上向けた
医者しかし、ここに来る途中、石塔が崩れた現場をリフくんに教えられて見てきたんですが……
医者よく無事でしたねえ。しばらく静養さえすれば、心配ないですよ
部屋に集まっていた誰もが昨日のローデルを見知っているだけに…
驚異的に回復しているのは法術のおかげだとわかったが…
それを医者に話そうとする者はいなかった
医者が帰ってしまうと、入れ替わりにチェスターがなだれ込んできた
そこにいたクレスとレイニーが驚いて脇によける
チェスターローデル!いや、ローデルさん
ガバッと床にひれ伏したチェスターの髪がはねているのを見て、クレスは彼が今まで眠っていたことを知った
うなされていて、熟睡できなかったためだろう
チェスターどうしてもあんたに謝らないと、オレ……
ローデル……チェスター?
ローデルは目だけでチェスターを見下ろした
チェスター聖レニオスの日だなんてウソついて、オレが無理に塔を起こしたりしなけりゃ……
切れ長の瞳から涙がこぼれ落ちる。肩が震えていた
チェスター立ってなきゃ倒れるわけないもんなっ!?
チェスターオレのせいだよ。許してくれ!
ローデル……
チェスター昨夜、よく眠れなかった
チェスターもしあんたが死んじまったらどうしようって、そんな夢ばっかり見てた
ローデルチェスター
チェスターこんなひどいことして、オレなんかにトーティスを再建できるわけがない
ローデルチェスター、聞いてくれ
ローデルはじっと目を閉じていたが、やがて唇を開いた
ローデル俺は……誰も恨んでなんかないぞ。今度のことは、聖レニオスの怒りに触れたと思っている
ローデル俺は神など信じてはいないが、村を守るものの存在と言い換えれば、理解できるさ
ローデルあのとき、塔の横なんかに立つつもりはなかった。でも引き寄せられた──
そうだった、とクレスは思い出した
ローデルのよろけ方は不自然なくらいだった
これまでたくさんの精霊たちと接してきたクレスには…
ローデルの説もあながち間違いではない気がした
ローデルだから言うわけではないがな、チェスター。少し協力し合わないか
ローデル私利私欲のためでなく、トーティスのために、だ
ローデルクレスもどうだ?
クレス僕は……かまわないけど。大工ばかりの村になるのはちょっと
ローデルもうその案はダメさ。逃亡者続出の現場に住もうなんて大工は、そうはいない
ローデル俺は、少々強引にやりすぎたようだ
ローデル信念を曲げるわけにはいかないが、おまえたちにも悪いことをしたと思っているよ
ローデル──だが、ここはいいところだ。村ができあがったあかつきには…
ローデルミッドガルズからの移民も、少しは受け入れてやって欲しい
ありがとう、とチェスターは囁いた。いまのローデルなら信じられそうだ、と彼は思った
チェスターで、かんじんの話だがな
チェスターはトリスタンをキッと睨みつける。さっきまで泣いていたとは思えない
クレス、ミントと四人で囲む、朝食のテーブルだった
トリスタン相変わらず目つきが悪いのぉ。こわいこわいっ
チェスターとぼけんじゃねーよ
チェスターモリスンさんがなにをしにミッドガルズに行ったのか、あんたが知らないわけないだろ
トリスタン知らん知らん
老人は椅子からストンと滑り降りるとリストの入った布袋を首から下げた
トリスタンでは、またな
クレスまたな、ってトリスタン師匠!?
トリスタン信じる者は救われる
クレスえ?
トリスタンかもしれん、ということじゃ。おんしも頑張んなさいよ
ポンポン、とクレスの胸を叩いて、老人は出て行った
モリスンぶえっくしよい!
モリスンは、派手なくしゃみをひとつした
宿屋の主人風邪かい?
宿屋の食堂で、主人が訊ねる
モリスンいや、そうじゃないんだが
宿屋の主人でもここへ来てからあんた、毎日だよ
モリスンたしかに
宿屋の主人朝飯、昼飯、晩の飯。誰かが飯どきに集まって、噂してるんじゃないのかな
モリスンはは、まさか
モリスンは否定したが、ありそうなことだと密かに思う
モリスン(クレスたちだな)
宿屋の主人で、商売はうまくいってるのかい?
主人はモリスンを毛色の変わった商人だと思っているらしかった
モリスンまあまあだよ。もうしばらく滞在するかもしれないが
宿屋の主人そいつはいいね
主人はパンのおかわりを持ってきた
一〇日ほどが過ぎると、ローデルの傷も少しずつ癒えてきた
ひとりでベッドに起き上がり、食事をとるくらいのことはできるようになっていた
ローデル問題なく進んでいるか
ミントが部屋を訪れるたびに、ローデルは質問した
ミントレイニーさんがちゃんとやってくださってますよ
ローデルちょっと見に行きたいんだが……壁の普請のことで、言っておかないといけないことが
ミントいけません
ミントレイニーさんはきょうも夕方報告に来てくれますから、そのときにしてくださいね
ミント寝ていないとダメですよ
ミントが許可しないとわかると、親方は仰向けに寝たままで大げさなため息をつく
ローデルはああっ。ミント、家というのはなあ、大工にとっては子供と同じなんだぞ
ローデルきちんと成長を見ていないと
ミント(子供……やっぱり会いたいんだわ)
ミントローデルさん。頑張っていればきっといいことがありますよ
ローデルいいこと?はっ、なんだね。そんなものがあるなら聞きたいもんだ
ミントはくるりと振り返ると、「秘密です」と答えた
それから枕カバーを替えようと、ベッドに近づいた
ミント(アルザス)
その瞬間、なんの前触れもなく頭の中に浮かぶ
が、すでにミントはそれが父親の名だということを知っていた
あれ以来、母親の日記の続きを読む機会は訪れていなかった
ミントが何気なくローデルを見下ろしたときだった
ミント(あ、この感じ……)
以前にも同じようなことがあった気がした
いや、確かにあった
ミント(ベッドの脇で誰かを見ていた…… こうやって見下ろしていたり、 それから、そう…)
ミント(ベッドのシーツをつかんで)
ローデルが、枕を取りやすいように頭を浮かせた
ミントは枕を手前にそっと引きながら考えた
ミント(つかんで?)
どういうことだろう
ミント(あのとき、誰か、 ペンを走らせていた……)
ミント(そう、私はそれを 見ていたんだわ……)
ミント(男の人だった…… 鳶色の髪と、瞳……もしかして)
強い視線を感じ、ミントはハッと現実にひき戻された
ローデル首が折れそうだよ
ミントあ、ああっ、ごめんなさい。すぐ替えますから
頭を浮かせっぱなしのローデルは
ローデルこれもリハビリかな
とだけ言って、歯を見せた
久しぶりの故郷だった
都の西側にある、小さな船着き場から陸にあがったカイムは…
足元の地面をブーツでトントンと叩いてみた
父親に言われて生まれて初めてユークリッド大陸へ行くことになったときは…
もっと違う大地が待っているような気がしたものだが、こうしてみると変わりなどない
世界はどこも同じようなものなのかもしれない、と彼は感じた
カイムはレイニーが用意した地図を広げて確認してみる
地図に記されたローデルの家は、クラウドットという町のはずれにあった
はずれといってもそこだけ緩やかな高台になっており、町を見下すことのできる一等地だ
カイムへえ
門の前に立って、カイムは驚いてしまった
あちらにもこちらにも、色とりどりのバラが咲き乱れていた
???なにかご用かしら
カイムひっ
突然、赤いバラの繁みの陰から声をかけられ、カイムは飛び上がった
カイム(聞かれたかな?)
カイムあ、あのう。こちらはロ、ローデルさんのお宅ですよね
???ええ。そうです
繁みのむこうから姿を現わした女性は咲き誇るバラよりはうんと清楚なイメージだが、かなりの美人だった
長い髪を美しく結い上げている
???あなたは?
カイムカイムといいます。……あのう、驚かないで聞いてほしいんですけど……
カイムは急にしどろもどろになった
ローデルのことをどう伝えるべきか、なにも考えていなかったのである
???なにかあったのね、ユークリッドで
ローデルの妻は、ぎこちない沈黙からカイムが運んできた知らせの性格を悟ったようだった
???そう……それでケガを
カイムご家族の方に来てもらったほうがいいだろうってことになったんです。僕、たまたまこの近くの出身なもので
???ありがとう、カイムさん
カイムいえ
エリン私はエリンよ。とにかくうちにお入りになって
カイム(うっわあ。すごいうちだな)
通された応接間の家具や調度は、カイムが見ても相当な高級品であるとわかる
エリンさっそくですけど、ひどいって、どれくらいのケガなのかしら
カイムいや、僕は直接会ってないんです
カイムは出がけにクレスから聞いた説明を、なるべく忠実にエリンに伝えた
エリンまあ、足の骨が……
カイムでも、もう治っているかもしれません。あちらには法術師がいるので
エリン法術ですって?
エリンの目が驚きに見開かれた
そのとき、廊下で足音がした
男の子ただいま!
少女あれっ、お客さまなの
ドアを開けて駆け込んできたのは、一〇歳くらいの男の子と、その姉らしき少女だった
シリカこんにちは。シリカです。こっちは弟のジェール
ジェールよろしく
ふたりは深々と会釈した
カイム僕はカイム……!
カイムは、顔を上げたシリカをまともに見たとたん
カイム(かっ、かわいいっ)
大きな瞳も、波打つ巻き毛も、なにひとつローデルには似ていない。ふたりとも母親似なのだった
ジェールお母さん。ちゃんと並んでたらカードもらえたよ
ジェールはポケットから数字が書かれたカードを取り出すと、エリンに手渡した
エリンありがとう。でももうこれは必要なくなったわ
エリンすぐにみんなでユークリッドヘ発ちます
シリカええっ!?
ジェールなんでっ
子供たちは驚いて叫んだ
ジェールせっかくカードをもらったのに……オークションはあしたじゃないか!
ジェールがぷうっと頬を膨らませ、カイムを睨んだ
ジェールこのお兄ちゃんのせいなんだね?
エリンいいえ、ちがうのよ。お父さんがケガをしたんですって
シリカえっ
シリカの顔が泣きそうに歪む
シリカほんとですか、カイムさん
カイムああ……でもきっと大丈夫だよ
カイムは曖昧に少女をなぐさめ、それからエリンに向き直った
カイムいまからすぐ行くんですか?あしたのオークションっていうのは?
エリンああ、このこと
ローデルの妻は白いカードをカイムに示して苦笑した
エリンクラウドットではふた月に一度、オークションが開かれるんです
エリンすごい骨董品なんかはめったに出ませんけれど、とても人気があるの
エリンだから入札したい人には前もってこのカードが配られるんです
エリン今回はとても欲しいものがあったものだから、子供たちに並んでもらったんですが
ジェールねえ、行かないの?
エリンええ、ジェール。そんなこと言ってる場合ではなくなったの
エリンシリカ、階上へ行って支度をしていらっしゃい
シリカわかったわ。あなたも一緒に行ってくださるの?
カイムもちろん!
カイムはとっさに快諾していた
エリンたちと一緒に船着き場に到着したカイムは…
思いがけない人物に後ろから肩を叩かれた
???きみたち。ユークリッドまで行くのなら同じ船にしないか──
カイムえ……あっ、あなたは!?
モリスンきみ!?
カイムモリスンさんっ
驚いたな、とモリスンは唸り、目の前に停泊している小ぶりの漁船を親指でさした
モリスンいや、ユークリッドに行く客が五人揃わないと船は出せないっていうんだが
カイム僕たちはトーティスヘ行くんです
モリスンそりゃ好都合
エリンあのう。もしかして、トリニクス・D・モリスン?
カイムを押しのけるようにして、エリンが前に出る
モリスンそうだが……
モリスンがカイムに説明を求める視線を送ったとき…
停泊中の小船の甲板に男が姿を現わした
船長らしい
船長おーい。どうなったね?
モリスン揃ったよ。出航してくれ!
モリスンは海風に逆らって叫んだ
モリスン話は船に乗ってからにしよう。どうせうんざりするほど時間はあるんだ
カイムは、なぜローデルの妻がモリスンを知っているのだろうと不思議に思った
瑠璃の夢エピローグ
数か月が過ぎた
美しくできあがったどの家からも、賑やかで楽しげな声が聞こえてくる
ユークリッド大陸を南下する旅人はみな、おぞましい悲劇を乗り越え、再生したこの村を通りたがった
村の中央には立派な教会まで建てられていた
宿屋には商人たちが多く泊まるので、自然と市がたつ
物資は豊かで、人々の顔には希望が溢れているのだった
このまま発展してゆけば、村ではなく町と呼ばれるのも時間の問題のように思えた
トリスタンそれじゃ、おんしらみんな元気でな
クレスたちの家の前で、トリスタン師匠はみんなに向かってひょいと片手をあげた
誰もこの老人の本当の家を知らなかった
が、師匠がこの村に戻ってすぐ、家に帰ってしまったモリスンのところへ行くらしい
やはりあそこがいちばん落ち着くのだろう
老人が行ってしまうと、チェスターがため息をつく
チェスターあーあ
クレスなんだよ。さみしいのか
チェスターバーカ。これでまた居心地がより悪くなると思ってさ
すでにレイニーをはじめとする大工たちは村を去っている
ローデルたちミッドガルズ組も、もうここにはいない
もっとも、ローデルは村を拡張するために必ずまた来ると言い残していったのだが
ただひとりこの地で頑張っているのがカイムだが──
彼はいまや宿屋の主人の片腕として、重宝がられていた──
住み込みなので、けっきょく家にはクレス、ミント、チェスターの三人だけだ
チェスターなあ、裏庭に小屋建ててもいいだろ
クレスまたその話か。いいかげんに……
チェスターだって、いっつも当てつけられてるんだぜ、オレ。かわいそうだろうが
当てつけてるだなんて、とミントが赤くなりながら文句を言った
チェスターそれにしても、あの爺さんには感謝だなあ
チェスターが、感慨深そうに腕組みをする
クレスとミントが作ったあのリストを使って…
トリスタンは歩けるだけの町や村を回り…
亡くなったトーティスの村人に緑のある者を根気よく集めたのだった
ほとんどが親戚や友人だったが…
老人の移住の勧めにのった人々は、たいてい一族を引き連れて越してきたのである
もしかしたらカイムの両親もこちらで雑貨屋を出すかもしれないと聞かされたところだった
村の婦人こんにちは、アルベインさん。今夜、聖レニオス教会で集会があるそうですよ
村の婦人このあいだ新しい村の名前を決めるって話が出ていたでしょう?
村の婦人たったいま聞いたのだけど、最有力候補は『ミゲール』よ
村の婦人あなたのお父さまの名前なんですってね
チェスター親父さんの名前が村の名前になるのか。すげーじゃん
クレス……なんか落ちつかないな。まだ決まったわけじゃないけど
ミントそれじゃ、道場も早く建てなければいけませんね
ミントは裏庭を振り返りながら言った
ミント私、ちょっと母のところへ行ってきます
ミントお母さん
メリルの墓の前に座り、ミントは話しかける
村の活気も、ここまでは届かない。心地いい風が静かに吹いていた
ミントきのう、市へ行ってね。ほら見て
彼女は持っていた紙包みからなにかを取り出すと、墓石にそっと近づけた
ミントね?お母さんのと似ているでしょ?
それは革表紙のついた、真新しい日記帳だった
ミント私もなにか書き残しておこうと思うの
ミントは近くの大木の根元に座り、幹にもたれかかると、日記帳をまん中から開いた
真っ白な紙の上に、ペンを使うように指を滑らせてみる
ミント(クレスさんと出会った 地下牢のことから 書くべきかしら……)
ミント(それとも、ここでの生活を?)
ミントはあれこれと思いを巡らせた
ミントいつかこれを夢の中に封印することができたら…
ミントずっと先の未来の子供にも読んでもらえる……
そこまで言って、くすっと笑ってしまう
ミントその前にまず新しい家族をつくらなきゃね
ミントはいちばん前のページを開けると…
いまも自分の帰りを待っているであろう彼の名前を指で書いてみる
それが決して消えてしまわないように…
家に戻ったらペンでしっかりとなぞっておかなくちゃ、とミントは思った
それが本当に最初の一ページになることを、彼女ははっきりと感じていた